1日遅れの記事になってしまったんですがあせる


 昨日の8月23日は、1868(明治元)年に戊辰戦争の最中、会津藩の白虎隊が城下の飯盛山で自刃した日でした。


 白虎隊は、会津藩校・日新館の15~17歳の生徒で構成された予備部隊でした。

 新政府軍の圧倒的な進軍に押された会津軍は、ついに白虎隊にまで出陣命令を下します。
 しかし、白虎隊士中2番隊は、戸の口での戦に敗れ、撤退。
 隊長ともはぐれた彼等は、負傷者を抱え、疲れ切った体を引きずりながら飯盛山へと落ち延びました。

 けれども、彼らは城下町の火災を、鶴ヶ城が炎上しているものと誤認。
 城へと戻ることだけを心の支えとしていた少年達は、絶望に捕らわれ、その場で20名全員が自害を遂げました。



 もう20年以上も前。

 らいらいは飯盛山を訪れたことがあります。


 飯盛山は、高台の小さな山。
 飯盛山の白虎隊最期の地からは、城下町が一望できました。
 そして、彼等の拠り所だった鶴ヶ城は、町の真ん中にシンボルとして建つ平城です。

 確かに。

 町から立ち上る炎と黒煙に、少年達が城が落ちたと間違えたのは無理もありませんでした。
 同時に・・・城と城下町のこの近さは、そのまま会津公と藩領民との距離の近さだったのかも知れません。


 それだからこそ、会津の人々は松平公のために、会津魂を護るために、徹底抗戦で戦い抜いたのでしょう。



 会津戦争で亡くなった者達の処遇は、悲惨なものでした。
 新政府軍の命により、死者を弔うことも、葬ることも許されず、遺骸は捨て置かれ、野犬に食い散らかされ。
 白骨化した状態になってようやく、腐敗した遺体から疫病が発生することを恐れた新政府軍から埋葬の許可が下りたと云います。

 白虎隊もまた、同じでした。

 飯盛山で自害した20名の中に、一人だけ虫の息の状態で近くの農民に助けられた少年・飯沼貞吉(後年、貞雄と改名)がいました。

 明治・大正・昭和と生き抜いた彼が、会津戦争について重い口を開いたのは晩年。
 その証言より、白虎隊の最後の様子が後生に伝わったのです。

 その飯沼貞吉の、こんなエピソードが残っています。
 日清戦争時に、彼は電信技師としてソウルに渡りました。
 その時に、保身の為に携帯するように命じられたピストルを彼は頑として受け取らなかったそうです。

 『自分は白虎隊として死んだ身である』
 そう云って・・・


 飯盛山には、自刃した20名の墓石が建っています。
 並んで19基。


 そうして、少し離れた場所に、昭和6年に79歳で没した飯沼貞吉の墓があります。
 飯盛山の仲間の元へ埋葬して欲しいというのが、彼の遺言だったとか。

 『過ぎし世は 夢かうつつか白雲の 空に浮かべる心地こそすれ』

 飯沼貞吉の、晩年の句です。



 さて。
 白虎隊は、『飯盛山で全員が自刃した少年部隊』というイメージが強いのですが、実際は、士中1番隊・2番隊・寄合隊・足軽隊で構成された340人ほどの隊員がいました。
 そのうち、全体の8割ほどにあたる280名が生きて明治を迎えています。

 今まであまり日の当たる事の無かった白虎隊の全容が、次第に明らかにされていっています。

 自刃した隊士以外にも、こうやって全身全霊で命をかけて戦い抜いた隊士達がいたことはもっと認められるべきでしょう。

 しかし、武士道を重んじる会津では生き残りの白虎隊に対して『生き恥をさらした』と非難する向きも多かったとか。
 飯沼貞吉の墓が仲間と隔たっているのは、自刃に失敗した彼への批判に気配りしたからだと云います。


 当事者でない者、会津戦争をくぐり抜けていない者や後生の者が、安易に人を批判するのは最も恥ずべき事です。
 武士道と声高に唱えて責める者こそが、士道不覚悟で断罪されるべきです。

 会津戦争を戦った人々は、皆。
 生きて明治を迎えた者、散っていった者。老若男女を問わず、皆が生死を分ける会津戦争のギリギリの最中、自分が誇れる生き方をしたはずです。

 死を選ぶよりも、生き抜く事の方がずっと苦しい道だと知りながら、なお生き抜く道を選んだ人間が、胸を張って新時代を築いた自分のことを誇れる時代であらねばならぬと思います。

 歴史を知ると云うことは、人の悲しみを誇りを信念を生き様を知ることではないでしょうか?





 らいらいは、歴史ファンというよりは歴史ミーハーなので(汗)大学時代に二本松少年隊や白虎隊の戊辰戦跡を巡ったことがあります。
 会津で買った絵ロウソクは、今でも大切な思い出の品です。

 


 その会津若松の地は、東京電力福島第1原発事故による放射能汚染の風評被害で、年間350万人にのぼる観光客が2割にまで激減。

 大変な痛手を受けています。

 

 来年の3月11日には、この会津の絵ロウソクを灯して被害にあった方々の冥福を祈り、そうして再び会津を訪れて絵ロウソクを求めよう・・・

 それが今の私のささやかな願望です。









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