アレクサンドル・コジェーヴの「ポスト歴史的な動物性」を村上龍に読み込んだ柄谷行人はいつにも増して鋭いと思われるが、それを手がかりに村上の作品の「動物性」を読んで行く。
とてもいい本を読んだと思う。ぼんやり考えていたことを明確に理論的に考察されている。それはつまり、中条先生は、この本の中で筒井康隆にも言及していて、村上と筒井(あるいは大江健三郎)の表現の類似性をぼんやりと考えていたので(それは過剰な修辞と表現というもの)、筒井作品について「反=近代文学」として言及していたところに膝を打ったのであった。
70年代後半からの文学や文化、サブカルチャーの変動は吉本隆明も論じていたので、そこは現代日本の文化研究として鶴見俊輔と対比しながら論じたことがあるけれど、村上、筒井はまさに70ー80年代の文化の変容の中の作家であると思っている。社会学として分析出来そうだったらやってみたいけれど。
村上龍の表現の暴力性については、例えば庵野秀明が『ラヴ&ポップ』を撮ったのと無縁ではないように思っていて、村上のように庵野の描く戦闘シーンのような破壊的な表現は、映像で時代の閉塞感を表現していると、ASCJ(アジア日本学会)で発表したことがある(Images of techno(logy) culture in Japan)。ここでの論じたのは、実際の戦争の代わりに、メディアの中での閉塞感の表現としての暴力性というものだったので、「剥き出し」の暴力の世紀に生きている現在では内容の修正の必要を感じているところです。
粟谷佳司(博士)