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この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。





(293)水戸天狗党 第三最終章 


 彼らに対する扱いは過酷で、食事は日に二回の飯だけで、夜具はなく、ムシロ一枚が支給されたのみだった。彼らは空腹に苦しみ、体を寄せ合って、厳しい寒気をしのいだ。
 

 二月一日から、永覚寺の仮白洲で吟味がはじまり、八日にすべてが終わった。斬首三百五十二名、遠島百三十余名、追放八十七名、水戸渡し百三十名、永厳寺預け十一名その他という冷酷なものであった。むろん、武田伊賀守(耕雲斎)、山国兵部、田丸稲之衛門、藤田小四郎らは、初めに首をはねられた。十五歳以下の少年が十一名いて、かれらは永厳寺住職の乞いによって助命され、同寺の弟子坊主となった。
 


武田、山国、田丸、藤田の四名の首は塩漬けにされ、江戸を経て水戸に送られ、城下の町々を引き回された。また武田の妻とき(四十八歳)、子息桃丸(十歳)、金吾(三歳)は斬首されてさらされ、孫の男三郎(三歳)、金四郎(十三歳)、熊五郎(十歳)も死罪。さらに娘よし(十一歳)、山國の娘ちえ(三十歳)、妾なつ(五十歳)、嫁まつ(三十七歳)、孫娘みえ(十四歳)、せき(七歳)、くり(五歳)、田丸の母いほ(八十二歳)、妻なつ(五十八歳)、子誠次郎(二歳)、娘まつ(十九歳)、やす(十七歳)、うめ(十歳)らは永牢に処せられ、大半は獄死した。
 


 この処分を見ると、幕府の水戸浪士勢に対する恨みがいかに大きかったが知れる。しかし事件はこれだけでは済まなかった。

 天狗党に加わって遠島処分となった武田金次郎(耕雲斎の孫)以下110名は、小浜藩に預けられて謹慎処分となったが、同藩は彼らを厚遇した。慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると、武田金次郎ら天狗党の残党は、長州藩の支援を受けて京に潜伏していた本圀寺党と合流し、朝廷から諸生党追討を命じる勅諚を取り付けた。天狗党と本圀寺党(両者を併せて「さいみ党」と称した)は水戸藩庁を掌握して報復を開始、諸生党の家族らをことごとく処刑した。



 明治維新に際し、このような凄惨な殺害事件が発生したことは、あまり知られていない。
 水戸を脱出した諸生党は北越戦争・会津戦争等に参加したが、これら一連の戦役が新政府軍の勝利に終わると、9月29日には水戸城下に攻め寄せたが失敗に終わった(弘道館戦争)。彼らは更に下総へと逃れて抗戦を続けたが、10月6日の松山戦争で壊滅した。


 こうして市川ら諸生党の残党も捕えられて処刑されたが、武田らはなおも諸生党の係累に対して弾圧を加え続け、水戸における血で血を洗うごとき陰惨な報復は止むことが無かった。

 水戸学を背景に尊王攘夷運動を当初こそ主導した水戸藩であったが、藩内抗争により人材をことごとく失ったため、藩出身者が創立当初の新政府で重要な地位を占めることは無かった。明治政府はあまりに気の毒と、警察官に優先的に採用したといわれる。なお一説によれば、武田金次郎は晩年に伊香保温泉の風呂番をして世に出ることがなかったと伝わる。

 水戸光圀は大日本史を編んだが、寛文5年(1665年)明の遺臣・朱舜水を招き儒学を取り入れていたが、学風は非常に朱子学的なものであったという。結果として陰惨な殺害事件は水戸藩だけに終わったが、筆者はこれに対し、欧米列強に対するよりも強い危険を覚える。



引用図書など『歴史の影絵』 吉村明 文春文庫 『天狗党の跡をゆく』 鈴木茂乃夫著 暁印書館 ウィキペディアなど