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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(295)会津若松の歴史認識

 

 どなたでも知っているが、幕末から明治初期にかけての、福島県、すなわち「会津若松藩」について少しばかり書かせていただく。

 会津藩・松平家の初代は三代将軍家光の弟である。二代将軍秀忠の息子である。つまり「徳川家康の孫」にあたる保科正之(ほしな・まさゆき)であります。松平の名を名乗っていないのは異母弟という理由がある。また家紋は、「三つ葉葵」であり(会津三つ葉葵)テレビドラマの水戸黄門に登場したあの紋だ。そう、「頭が高い!!!」と一喝されるご紋章であります。徳川将軍家との結びつきは強い。

 

 また神道を大切とした家風で、江戸の警護と京都警護の両方を受け持たされ、家臣のほとんどが江戸、京都で暮らし、文化レベルが非常に高度とされた。そのため会津の地には男性が少なく、少子化問題が発生したほどという。幕末には江戸に加え、京都守護職を引き受けされ、藩の台所事情は苦しかった。

 


 どんな藩主だったか? 京都にあった(文久三年からは実質的に江戸より京都が中心)九代藩主・松平容保(まつだいら・かたもり)は、よく言えば誠実そのもの、悪く言うと政治をまったく知らなかった。篤実さが、朝廷の孝明天皇にひどく信用され、何でもかんでも松平容保なしにはことが進まなかった。簡単に言うと徹底的に朝廷に仕えていた。将軍家と天皇の双方に非常に近かった会津藩士のプライドがどんなものだったか、想像に難くない。
 

しかしながら、戊辰戦争のとき「朝敵」あるいは「逆臣」とされたのは、「岩倉具視と長州藩の謀略」との説が有力。また、もっともデリケートな折に孝明天皇が崩御され、これはあまりにもタイミングが良すぎて、いまだに毒殺説が残っている。

 

 旧会津藩、とりわけ会津若松(あいづ・わかまつ)の人々は、いまも山口県(長州藩)の人間への強い嫌悪感とわだかまりをもっている。それは、幕末・維新のときの両者の確執(かくしつ・意見を曲げず不和になること)が、百四十年あまりを経た今も解消されていないからで、とりわけ、敗者として「朝敵」「逆賊」の汚名を着せ続けられてきた会津では恨みの根が深い。

 

 これまでも、旧会津藩の人の名誉回復や、両者の和解を模索する動きはあったが、根本的な和解には到っていない。ひとつには、明治以来今日もなお続く薩長を中心とした「勝者の歴史観」を改め、歴史の裏をも含めた、歴史観の確立、具体的には歴史教科書の訂正が必要とされている。(どこかで聞いたような話ですが・・・・・・)幕末を調べれば調べるほど納得する話であります。

 

 もうひとつは、国のためを思って努力した会津藩のひとたちの真情を正しく理解し、明治以来、今日に到るまで、会津に対して「朝敵」「逆賊」という不当な汚名を着せ続けたことに対して、国が謝罪してその名誉を回復しない限り、会津の人たちのわだかまりは永久に解消しないとされる。(筆者はたとえそれをしても無駄と考えているが、ひとつの意見としては尊重しています。)
 
 戊辰戦争に負けたのはしょうがないとしても、特に三千とも四千ともいわれる戦死者を埋葬させなかった(命令系統はいまだ不明)こと、女子供を含む一万を超す士族を斗南(となみ:下北半島の原野)に追いやり、寒さと食料不足で多くの家臣が短期に死亡したこと、などなどの恨みが残っているとされる。反対に新政府の立場としては、再度の「革命」異常な恐怖心を覚えていたことなどがわかっている。さまざまな和解を図り、皇室も、松平容保の孫を迎え秩父宮妃殿下としている。

 

 また会津は明治になってからも、靖国神社での扱われ方で屈辱を受けているとの主張が強い。これは日中関係とよく似ている。日本政府は中国に対して再三謝罪している。もちろん、国内に反論する人も多いものの、結局、それがないと「会津問題」は解決がつかないだろうとされる。つまり、明治という国家(「主として長州藩」)が謀略によって会津藩を「罪人」にした、あるいは「朝敵」にしたことに対し、それは誤りだったという明確な表明が欲しいということだ。

 

 唯ひとり、これをやろうとしたのは、安倍普三氏だという。元総理が会津若松に来て、「私は長州出身の総理大臣である。私どもの祖先が会津若松に大変ご迷惑をかけた。長州出身の総理としてお詫びを申し上げる」ということを参議院選挙のとき街頭演説で言った。「かなり気にされていたのでしょうね・・・・・・」と話者に言わせている。

 

「あれはただの街頭演説で評価できないと会津若松市の上層部の方々はいっていますが、私はそれなりに勇気ある発言だったと思っている」と対談で星 亮一(ほしりょういち)氏は評価している。その他、広い立場からこの問題を考え始めた方も多く今は微妙な時期といっていい。 

 歴史は簡単そうで難しい。歴史学には感情が入り込むからだ。ゆえに歴史学はサイエンスになりえない。学べば学ぶほど深くなっていくという。福島について語るとき、以上のごとき背景があると、ご認識いただきたい。

 

 会津藩は「旧い幕府」を守ろうとして戦ったのではない。孝明天皇でさえ、攘夷は無理と理解され後に諸港の開港を命じられている。それぞれに「近代日本の明日の姿」を思い描いて戦った。もと首相の原敬が「この国には『朝敵』などただの独りもいなかった」と語っており見事な見識だ。



引用本:『会津と長州、幕末維新の光と闇』星 亮一VS一坂太郎 講談社