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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(312)北前船(きたまえせん・きたまえぶね)



西回り航路の開通
 河村瑞賢(かわむら・ずいけん)は、寛文十一年(1671)、「東廻り航路」を開通させ、翌、寛文十二年(1672)、酒田を出航して日本海沿岸から下関経由で大阪に至る航路、いわゆる「西廻り航路」を開通させた。
 のちに西廻り航路は秋田以北、さらに蝦夷地の松前に至った。
 東回り航路は、流通経路の中心が大阪にあったのに江戸までしか行かなかったことや、航路がよく荒れたことから不振であったが、西廻り航路の発達はめざましく、なかでも「北前船」の台頭は、わが国の海運史に新しい局面を開いた。


北前船の名称は日本列島の北を回る船という意味で使われたもので、船の形式は「弁才船」である。弁才船そのものはすでに近世前期に瀬戸内地方で小型廻船として活躍していたが、その弁才船はまだ漕帆両用の中世的廻船の形態をとっていた。弁才船は割合早く日本海にも進出していたようで、すでに江戸時代初期にはハガセ船・北国船と競っていたようである。

 

 こうした弁才船が西廻り航路の開通によってさらに発達し、その運送の主力となって活躍する。
 弁才船の基本構造は、航(かわら:敷・丁)と呼ばれる厚い船底板を基盤とし、これに加敷・中棚・上棚という幅の広い外板を組み合わせて船の外回りを造り、これに内側から多数の船梁をいれて、船体に横強度をもたせるようにしている。
 船底材の航と中棚をつなぐ中敷きも、航と同等の厚さのオモキを用い、これもハガセ船・北国船にみられるように、岩礁に対する考慮であった。また、日本海の荒波に船首を突っ込ませないため船首の反りを強くしていた。
 

 こうした弁才船も天保年間(1830~44)から船体の構造が大きく変化し、積載量が増加した。



北前船の商法
 この北前船による西廻り航路が繁栄した理由のひとつは、冬季を除いて日本海と瀬戸内海を結ぶ航路は太平洋より航行しやすかったということがあるが、最も大きな理由は運賃が安かったことである。寛政年間(1789~1801)の米百石の運賃は、西廻り航路は七一三里(約3000キロ)で金二十一両であったのに対し、東回り航路ならば四百十七里(約1700キロ)で金二十三両二分をいうように、西廻り航路は距離が二倍近くあったのに、運賃はかえって安かった。

 

 さらに西廻り航路に就航する北前船は、初めは物資を運ぶ運賃を利益とする「運賃積」であったが、次第に、各地で安く買い集めた品物を別の土地で高く売る「買積」というかたちをとった。そうなると船主は荷主でもあり、また直接船頭を務めることもあった。この船頭を「直乗船頭(じきのり・せんどう)」といい、単なる運送の責任者ではなく、自ら商売をする商人で、北前船廻船は江戸時代の総合商社だったということができる。

 

 もちろん雇いの船頭もたくさんいて、そうした船頭を「沖船頭」という。この場合も船主は船頭の意欲をそそるため、給与のほかに全積載量の約一割は沖船頭個人の商品を積むことを許した。これはホマチ(帆待ち)と呼ばれ、のちには、一般に「へそくり」の意味でも使われるようになった。また船頭以外の乗組員である水主にも、給与のほかに「切出し」という歩合給を与え、できるだけ多く荷を積むようにした。こうした北前船の商法が商品流通をいっそう活発化させたのである。

 

 北前船の船主は北陸を中心とした日本海沿岸地域の人々で、船主たちは新春早々に故郷をたって、陸路で大阪に向かい、船を整備して積荷を仕入れた。先々の寄港地でも積荷を仕入れ、瀬戸内海を航行し、下関を経て、日本海の港、港で商売をしながら箱函、江差など蝦夷地に向かう。
 

 蝦夷地に到着するのは五月下旬ころで、ここで海産物などを仕入れて八月下旬に出航し、九月下旬に瀬戸内海に入り、十一月中に大阪に戻る。そして大阪で蝦夷・東北から仕入れてきた荷を売りさばいて故郷に帰った。通常大阪と蝦夷地を二往復もすれば、造船費が出るほどの利益が上がったといわれる。

 

 北前船の上方から蝦夷地方面への荷を「下り荷」といい、主として酒、紙、煙草、米、木綿、古手(古着)、砂糖、塩、筵(むしろ)などで、蝦夷地方面から上方への「上り荷」は、身欠き鰊、魚油、数の子、ふのり、昆布、干鰯、鰊〆粕などの海産物が主だったが、最上
の紅花がまた重要な積荷だった。



文化を運んだ北前舟
 北前船の上り荷の海産物は上方の食生活を豊かなものにしたが、干鰯や鰊〆粕は摂津、河内、和泉、大和などの農村に送られ、綿作の重要な肥料となり、これが木綿の生産高をあげることになった。
 

 そこで織られた綿織物や上方で不要になった木綿の古着は、綿作をしない北陸や東北へ下り荷として送られた。古着は東北の漁村や農村の労働着として重宝され、傷んだ布を補強するために針で細かく刺して丈夫な刺し子にしたが、それらは意匠をこらして刺されて「津軽こぎん」や「南部菱刺(なんぶひしざし)」を生んだ。使えないほど痛んだ木綿の古着は細く裂いて横糸に、麻を縦糸にして織り込んだ。これも配色や縞柄に工夫がされて「裂織(さきおり)」という独特の織物を生み出した。
 
 また上り荷の紅花は京都に送られて染料として用いられたが、その鮮やかな紅色が京友禅を映えさせ、京友禅の評価をいっそう高めた。

 弁才船はこの時代では技術的にすぐれた船であったが、その構造上、荷を積まないと不安定で、安定させるためには適度の重さの積荷が必要だった。そのため上方からの下り荷が少ないときは、瀬戸内海の石や伊万里などの焼物、伏見の土人形など重いものを積み込んだ。途中の港で荷が増えると、これらを売って荷を少なくした。

 

 そうした石が、佐渡をはじめ東北各地の石造遺物を生み出したり、東北の寺院の敷石に用いられたりもした。佐渡や東北各地でつくられる土人形も、こうして運ばれた伏見人形の影響を受けた。また、もとは東北地方では木製の器を多く用いていたが、伊万里などから焼物が伝わると、日常生活に用いられるようになった。

 

 物資だけでなく、上方の文化、風習、行事も東北に伝えられた。京の祇園祭も弘前をはじめ東北地方に伝えられて、東北でも山鉾(やまほこ)が巡航する祭りが見られるようになった。北前船はまさに西日本の文化と東北日本の文化を交流させ、さらに一体化する役割を果たしたのだ。海外との貿易は、日本には外国に欲しいものがなかったためとされる。このようにして、日本経済は幕末には、すでに近代経済社会に入り込んでいたのである。


『旅の民俗誌』 岩井宏實著 河出書房新社 2002年