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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




東海道中いろいろ No.2


通行手形
長い旅に出るには、色々と準備が面倒になりますが、まず荷物があります。下着とか冬ですと防寒具とか、常備薬とか、その他色々です。
 ところで江戸期の旅ですと、パスポートが必要でした。昔の言葉だと「通行手形」です。で、現在のパスポートは日本国外務省が発行しますが、江戸時代は大抵、武士なら藩の担当役所が発行し、庶民ですと自分が檀家になっている寺が出します。ほかに村長さんにあたる名主、庄屋が出す場合もあったそうです。

 今のように写真などありませんから、氏名、生年、住所のほか、所属する仏教の宗派が書いてあります。で、この者が、もし病気になって死んだ場合は、その所で弔って頂きたい、などとあり、ついでに切支丹ではない、と書いてあったそうです。写真なんてなかった時代で、手書きの往来手形が本物だという証拠はないのですが、今の健康保険証なども写真はないですから、まあ、同じようなものでしょうね。


関所と手形
 往来手形が必要だったのは、「関所」を通る場合ですが、実際に旅した人の旅行日記を読むと、関所そのものが意外と少なく、あっても手形を見せる必要がないのが普通で、ときどきうるさい藩があり、入念にチェックしたとか。全部で270藩ほどのうち、ウルサイのが
20藩ほどだったそうです。ただし箱根の関所では、「関所手形」が必要だったとか。ただし江戸から上方へ行く場合だけ必要。女性の場合は手間がかかったそうです。まあ、そうはいっても自由に近かったようです。現代でも社会主義圏では、国内旅行の自由もない地域があります。封建時代の江戸はもっと自由だったという妙なことになります。



持ち物
 ある程度の身の回りの品は持ってゆかないと快適な旅はできません。肌着類など当然のものは省略して、江戸時代の小道具を記してみます。



道中記―昔の旅行ガイドブック
 江戸時代も後期になりますと「道中記」という名の旅行案内のごとき本の出版が盛んになっており、これらは利用されていたのではないでしょうか。もっとも、木版刷りの本は部数も少なく高価だったので、どのくらいの人々が持っていったかは不明ですが、「道中行程記」という系統の旅行案内は、装丁した本ではなく、宿駅と道程だけを印刷した薄い折りたたみ式で、こっちは持ってゆく人が多かったのではないでしょうか。
 『諸国道中袖鏡(そでかがみ)』というガイドブックは128ページの装丁本で、東海道、中山道での宿場間の距離、荷物の運賃などをこまごまと書いてあります。最後には5ページにわたる簡単な京都の案内がついているばかりか、「諸国所々の行程附」という付録がありまして、量街道から分かれる27の街道での宿場間の距離と簡単な解説が16ページに渡り付いていました。サイズが小さく持って歩くには最適だったのではないか。


矢立―筆記用具
 旅には筆記用具が必要でしょう。心覚えを書く、出納帳をつける、紹介された先の住所を書くなど、旅先では何かと文字を書く用件があるものです。江戸のころは矢立(やたて)を持って歩くのが普通でした。色々なデザインがありますが、筆を入れる細い筒に、蓋つきの小さな墨壺をつけただけの道具ですが、墨壺には墨汁を含ませた綿を入れてあり、筒から取り出した筆先に墨汁の墨をつければ、すぐに筆記ができます。書き終えたら筆は筒に戻し、墨壺に蓋をすれば、他のものを汚すこともなく、墨汁が乾くことも防ぎます。



火打ち袋
 江戸の絵をみていると、煙管を持っている人が多く、旅に出ても火をつける必要があったに違いない。この頃だと、火ダネのないところで火をつけるのは、かなり面倒な作業が必要でした。江戸時代は着火道具の一式、つまり①火打石 ②火打ち金 ③火口(ほくち)④付け木をいれた「火打ち箱」がどこにもあったそうです。火打石は石英質の硬い石、火打ち金は鋼鉄の板、火口は火がつきやすい消し炭のような物質、付け木は、薄くそいだ木の端に、溶けた硫黄を付けたものです。
 昔の人も面倒だったらしく、たとえば囲炉裏などでも火種が残るようにしていました。煙草盆というものには中に火種があって、いつでも火をつけられたとか。旅行中でも、茶店などには必ず煙草盆があったので、火打石を使う必要はなかったとか。



 現代の1,2泊の旅行でも少量の胃腸薬や鎮痛剤、風邪薬などを持ってゆきますが、当時は漢方薬ですから、旅先でちょっとというわけには行きません。旅に出る人は使い慣れた売薬を持っていったと思われます。『江戸買い物独り案内』(文政七年)という江戸の商店を紹介する本には、沢山の薬問屋が広告を出しており、それぞれの店が複数の売薬の広告を掲載しています。
 越中富山の「反魂丹」は今でも手に入る胃腸薬です。そのた色々と入手できました。携帯用の枕、蝋燭立て、などが古い民具として残っていますが、仕事で旅をするような、旅慣れた人だけが使ったと思われます。



旅装を整える
 徒歩旅行になるから、歩きやすいように。日焼けもしたくないから、手甲、脚絆なども必要になります。人それぞれのようでいて、効率のいい方法が伝わります。典型的な旅装を①商人 ②武士 ③女性 ④無銭旅行者 の四種類でご説明します。

 

商人
 職業にふさわしい服装をするのは、身分など以前の問題で常識の問題です。標準的な型は、頭には日除け兼雨除けの浅い菅笠(すげがさ)をかぶり、着物は桟留縞(さんとめじま)の小袖で、歩いている間は、動かしやすいように尻端折り(しりっぱしょり)しています。
 桟留縞とは、細かい縞柄の上質木綿のことで、室町末期にインドから輸入した「南蛮渡来」の縞木綿を江戸時代後期に国産化したもの。丈夫で実用的。しかも趣味が良いので、かたぎの商人に好まれたといいます。
 
 日焼け防止のため、肘から手の甲までを覆う手甲をつけ、腰から下はピッタリとしたパッチか、細いズボンのようなものをはきます。膝から下は脚絆を巻き、紺色の足袋の上から草鞋を履きます。上に着るコートは、引き回し、つまり合羽ですが、雨除け、防寒用だから、普段は荷物に入れておく。荷物は二つの包みを前後に振り分けて方にかける事が多い。荷持ちのお供が居れば、天秤棒の前後につけて担いでいます。
 最後に道中差という刃渡り一尺八寸(約54センチ)以下の刀を差しています。太平の世では不要な道具ですが、ネクタイのような男の装身具だったようです。


武士
 立場によって旅をする武士も多かった。参勤交代で国元と江戸を往復する武士達も、旅慣れていたし、幕臣でも各地の直轄地への赴任で長旅をする人が多かった。武士社会はようするに軍隊なので最も階級制度が厳しく、一口に武士といっても、服装に大きな違いがありました。
 基本的な服装は、商人と似たようなものですが、いかにも武士らしく見えるのは、野袴(のばかま)という、ちょっといかつい袴をはいているところです。野袴は火事場や旅行など、野外活動専門で、歩いている間は脚絆を巻いた足を動かしやすいように、たくし上げ、いわゆる{股立ちをとった}状態にしています。手甲は武装の一部なのか、必ずつけています。
 いうまでもなく大小を差していますが、刀身に埃や雨水が入らぬように、柄から鯉口までを柄袋(つかぶくろ)という円錐形の袋で覆って紐で結んでおきます。抜刀する場合は、すぐに結び目が解けるはずでしたが、「桜田門外の変」では護衛の武士達が柄袋を解くのに手間取って抜刀が遅れたとかの話があります。本当は合図のために撃った短銃の弾が命中していたそうですが。



女性は地味な装いで
 女性は旅をする人の数が少なく、比較的自由だったそうです。しかし、江戸時代も後期、特に十八世紀に入ると、伊勢参宮が大流行したため、女性の旅行者というより、女性だけのグループがかなり多くなります。といっても普通は男性のお供を連れております。徒歩旅行ですから、おのずと型が決まってくるようです。
 笠は男と同じ菅笠で、着物は歩きやすい小袖、目立たぬように地味な柄を着たようです。男の合羽に相当するコートは、浴衣地の藍染の上っ張りなので、腰紐を結んでおけば、下に派手なものを着ても見えない。かなり好き勝手な格好で歩いていたようです。もっとも足袋は、白足袋をはくのが女性のたしなみだったといいますから、洗濯が大変だったと思われます。若い女性は、草鞋も紅緒(べにお)をはき、竹の杖を持つのが普通でした。


無銭旅行者のスタイル
 江戸時代は「おもらい」だけで全国旅行をする人がかなり居たそうです。乞食ではありません。ちゃんとした僧侶もいれば、国に帰れば普通に暮らしている俗人が無銭旅行をしていました。証拠となる絵も沢山残っております。
 僧侶ではない一般庶民が無銭旅行するときは、円筒形に巻いた筵(むしろ)を背中に、手には柄杓(ひしゃく)を持ち、誰が見ても施しを受けながら旅をする人間だとわかるようにしていたそうです。
 筵は、お寺の縁の下や、橋の下で雨露をしのいで野宿するための寝具で、銭、米、餅などの施しを受けるとき、手で受けるのは失礼なので、柄杓を使ったといわれます。



参考本:『ニッポンの旅』石川英輔著 淡交社 平成19年