(321)お庭番の日常業務
お庭番は将軍の命を受け、全国に探策の足を伸ばすが、江戸城での日常業務もあった。お庭番とは、吉宗が紀州から連れてきた十七人の者たちで、自分が低いものばかりだったが、幕臣となってから、身分は「御広敷伊賀者(おひろしき・いがもの)」と呼ばれた。別に伊賀者の組織に編入されたわけではない。ちょっと複雑だが、身分が「伊賀者」となっただけだった。
お庭番の宿直業務
お庭番は通常、江戸城の天主台下の庭にあった番所に勤務した。この庭は大奥に隣接していた。昼間は大奥の御広敷にある部屋にいて、夕方七つどき(午後四時頃)になると毎日三人ずつがお庭の御番所に行き、そこで宿直する。
そのときは鍵番の坊主に頼んで詰め所にいる奥の番に申し込む。奥の番は三人の生命を記し「当番帳」を渡す。三人は、お庭に行き、持ち場を見回る。番所に入るときは、外に向かう門も、自分達が入ってきた門も閉められている。この状態を「袋の鼠」といった。
もし、非常のことがあれば、拍子木を打って回る。拍子木は良く響くので、奥の番の詰め所や、大奥にも聞こえる。無事に夜が明けると、明け六つ(夜明け時)に鍵番の坊主が門を開けに来る。
すると、三人は番所を引き払い、御広敷に行く。
このようにお庭番は外界と大奥の間の閉鎖された場所で、警護にあたるのが日常業務だった。この業務は安政の頃から四人体制となり、不寝番となった。つまりそれまでは、寝ていて良かったらしい。
江戸城の取締まり。
宿直のほか、江戸城に入る植木職など、職人の取り締まりもお庭番の役目だった。たとえば暮れに大掃除があれば、大工、畳屋、経師屋などが城内に入る。その時は、担当の役人から人数などを聞き、入ってはいけない場所には入らせないようにする。
植木屋がはいったり、畳屋が入ったりという時には、将軍はそこを留守にする。職人が入る日は将軍の御成り(外出のこと)のときなどに設定され、御成りがない時でも別の部屋に御座所を移している。
職人が入るといっても数人ではない。
例えば将軍がふだん生活するご休息の間は、上段と下段があってそれぞれ十八畳ずつある。この部屋の畳や障子を一日でかたづけるのだから、二百人ほどの様々な職人が入る。
大奥の御小座敷から吹き上げの庭までは、つながっており、ここで将軍と大奥女中らが遊ぶこともあった。この時は、お庭番が奥の番に付いて取締りを行った。
将軍の楽しみのために中奥で御能が行われるときは、能役者の楽屋に入って取り締まりをした。
寛政(1789~1801)の頃、御休息お庭の者支配という役職ができ、お庭番がそれに任じられた。
御休息お庭の者支配は二人で、配下に御庭方という軽いものが三十人ほどあった。この役は、将軍の庭の管理一切を管轄した。例えば、庭の造作や、植木の買い上げなども行うから、金銭の出納などにも関わった。
お庭番の住居は、浜町の中の松島町(現在の中央区日本橋人形町二丁目)に町屋敷が百五十坪くらいずつ下賜された。しかし、そこは町人に貸して地代を取り、自分たちは桜田の御用屋敷に住んだ。その後、この場所は鍋島家に与えられるので、虎ノ門の外や雉子橋(きじばし)の内などに新しく屋敷ができて居住した。
お庭番の中には、お目見え以上になったり、遠国奉行に登用されたりする者も出てくる。そうした者は、町屋敷と武家地の交換を行い、武家地に住むようにもなった。
もともとの身分は低く「袋の鼠」となって江戸城を警備したお庭番だが、将軍の手足となって働くうちに、幕臣の中でも相当の地位に上がるようになった。
テレビドラマの印象とは、だいぶ違ったことをご理解いただければと記した。
参考図書:『江戸の組織人』 山本博文著 新潮文庫 平成20年
