江戸老人のブログ -29ページ目

江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。






(331)秘薬「熊胆(くまのい)」の値段



 『大江戸世相夜話』の作者、藤田覚氏は、秋田市内のある飲食店で、地元の新聞を見ていたら、熊胆の記事があったと書かれている。さすがに「またぎ」の本場秋田だけの事はあると感心したそうだ。

 その記事によると、熊胆を取るために熊が過剰に捕獲されているのではないか?と問題になり、ニホンザルと共に実態を調査することになったと書かれていた。

 

国内の漢方薬店の77%が熊胆(漢方では「ゆうたん」と呼ぶ)を取り扱っており、年間で200キログラムにおよび、これは熊一万頭分に相当するそうだ。大人のツキノワグマの体重が、約120キログラムだから、合計1200トンの熊から、わずかに200キログラムの熊胆しか取れないことになる。

 

 現在の日本では、本州と四国、九州にいるツキノワグマと北海道にいるヒグマが代表的な熊であり、狩猟や有害駆逐の名目で捕獲されるのは、年間で2400頭だという。単純計算で、7600頭分は輸入されたことになる。ほとんどが中国とされる。

 民家の近くに現れたとか、山菜やきのこ取りの方が襲われたりなど、熊に関わる記事をよく目にする。熊が棲息できる場所が狭まったのか頭数は減少した。それでも年間で2400頭も獲られていたとは驚きだったと藤田氏は書かれている。



 何のために熊を捕獲するのか、飛鳥時代から第一の目的は熊胆をとることだった。熊の胆嚢(たんのう)を取り出して、乾燥させて薬として用いる。効能が高いとされるが、日本では代替薬品が完成している。それ以上は一種の信仰だろうか。中国では閉じ込めた生きた熊の胆嚢から、ときどき直接にカテーテルで胆汁を取り出し、動物虐待として国際問題となっている。




 話がそれるが、熊胆は恐ろしく苦いという。高熱で痙攣を起こしている子供の気付け薬、また腹痛や消化不良の解消薬、強壮剤として珍重されたそうだ。

 江戸時代の初めに、明の時代の本草学者の李時珍(1518~93)が書いた『本草綱目』が日本にも入り、熊胆の効能が伝えられて有名になったらしい。大変に珍重されただけあって、値段もかなりのものだったという。熊胆一匁(3.75グラム)と金一匁とが同じ値段で、米一俵(60キログラム)に相当したといわれる。現代でも相当に高価らしい。



 効能が優れた薬だったので、江戸時代の人々はよい熊胆を入手しようと努力したらしい。当然、将軍も入手をはかり、幕府は「またぎ」の本場秋田藩にその上納を求めている。

 文化十二年(1815)の例だが、老中の土井利厚(どい・としあつ)から命じられた秋田藩は、熊胆を国元から運ばせて上納した。その数え方が良く分からないが、秋田藩では国元から熊胆「三具」を取り寄せ、それを「一具」ずつ奉書紙で包み、その三包みを一箱に入れて上納している。

 

 熊胆を求めたのは、将軍だけではなかった。かの名奉行として名高い遠山金四郎景元(かげもと)も、これを求めた。遠山は、天保十一年(1840)3月に北町奉行に就任するまでは勘定奉行だった。そのころ、豊田友直(とよだ・ともなお)という旗本が飛騨郡代に任命され、天保十一年四月に、任地である飛騨高山にあった郡代の陣屋に向け、江戸を発った。

勘定奉行の遠山と飛騨郡代の豊田は、勘定所の職制から言えば上司と部下の関係になる。遠山は、その豊田に熊胆の入手を頼んでいる。遠山は、悪くいえば上司という立場を利用して部下の豊田に熊胆を送らせたのである。



 豊田友直は筆まめな人で、かなり丁寧な日記(豊田友直日記)をつけていた。その日記は、郡代としての公務も記述しているが、個人的な事柄やさまざまな感想と意見なども書いて、

なかなか面白い日記である。そのなかに、遠山から熊胆を頼まれたことが出てくる。



 江戸を出発する前に、遠山から「正真の熊胆」を調達してくれと頼まれた。当時民間では、うさぎ、たぬき、きつねなどの胆嚢も、熊胆と称していたというし、おそらく偽者が出回っていたのだろう。藤田覚氏の母親は、長野県上伊那郡の山がちの所の出であるが、その父親達はよく熊胆を飲んでいたという。高価なものをそんなに飲めるとは思えないので、おそらくはきつねかたぬきの「熊胆」だったのではないか。

 だからこそ遠山は、正真正銘の本物を送ってくれと頼んだのだろう。豊田は四月十一日に江戸を発って、二十六日に高山陣屋に着いている。そして、五月二十七日には早くも熊胆を入手しているので、豊田は上司であった遠山の要望に早く応えようとしたらしい。



 高山陣屋の現地責任者に命じて熊胆を捜させた所、徳兵衛という百姓がもっているというので、一つ持ってこさせた。それは、長さが四寸五分(13.6センチ)、幅が二寸八分(8.5センチ)厚みが二分五厘(7.6ミリ)、重さが十八匁七分(70.1グラム)という大きさだった。藤田覚氏が富山市売薬資料館で見せてもらった熊胆は、色は黒く、細長く、一方が膨らんだ氷嚢のような形状であったという。代金は、相場が熊胆一匁が銀五十五

匁なので、つまり金十七両二朱だという。ただ、富山でも近年は払底していて、熊胆一匁が銀六十匁と相場が高くなっているらしい。これによると山地の飛騨高山でも、熊胆一匁(3.75グラム)が金一両に相当している。



 金一両を現代の金額に換算するのは難しいのだが、大阪歴史博物館長の相蘇一弘(あいそかずひろ)さんの説に従うと天保期、つまり1830年ごろの一両は、二十万円に相当するそうだ。一グラムで5万3,333円となる。江戸に持っていって、薬種問屋などで販売すれば、これよりはるかに高い値段がつくだろう。熊胆は確かに高価なものだったことが分かる。

 その熊胆を取り出した熊そのものは、加賀の白山の前山で捕獲したもので、「極最上の熊胆」との触れ込みだった。豊田は、その口上をなお信用しなかったらしく、高山町の名高い薬種屋で鑑定させた所「極品」であるとの鑑定結果を得た。

 ただ、正真正銘のものでも、熊の年齢や捕獲した季節、さらには捕まえ方まで、さまざまな条件により、品質がかなり違ってくるという。なお、豊田によれば「雪中を第一」とするそうである。雪中の季節といえば、冬眠中の熊が一番ということになる。



 豊田は「極最上」の熊胆を遠山景元へ送ったらしい。そこで豊田は、今年の冬は熊一頭を高山陣屋に運ばせ、目の前で熊胆を取り出させて日干しにするよう命じている。熊胆は病気が重くなり危急のときに効能のある秘薬なので、値段は高くてもぜひ「極品」を入手したいと思い、捕まえ方や熊の選び方などを説明しておいたという。

 豊田がどれほどの知識を持っていたかは不明だが、相当に詳しい知識を持っていたと分かる。遠山らは、飛騨が極上のものがとれる所で、しかも江戸よりもはるかに安い価格で入手できると知っており、いいチャンスと考え赴任する郡代に頼んだのだろう。将軍から代官まで、秘薬である最上品の入手に、非常に熱心だったと分かる話だ。






引用書:『大江戸世相夜話』 藤田 覚著 中公新書