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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。

 




(333)無尽(むじん)

 

 仮に10人の仲間がいて、毎月一両ずつ出し合うと、合計十両になる。人数が増えるとさらに金額が膨らむ。で、毎月くじを引き、当たったものが総額を懐に入れる。一両では何もできなかったが、十両となればかなりの事ができる。仲間が20人なら二十両となるから、一両を現代の価格にして20万円とすれば、くじに当たった者は400万円を自由に使えることになる。ただし一度当たったものも、毎月の決まった金額を支払い続けないと破綻する。

 

 この金融システムを無尽というが、最近は言葉すら聞かないので、なくなりかけている様だ。この無尽というものがどんなものか、近いうちに分からなくなってしまう運命にあるだろう。

 ただ、ある先生に言わせると、某県の奥深い所では今もやっているそうだから、意外としぶとく行き続けているのかもしれない。もっともこれは女性達が楽しく集まって宴会を開くのが目的の親睦会で、無尽が持っていた役割の名残をとどめているだけかもしれない、といっている。



 ところが平成十一年(1999)一月の新聞に、タイ式現代版「無尽講」のことが紹介されていた。タイの首都バンコクでは、経済危機を背景に、スラム街の住民を中心として、低所得者らの貯蓄組合が急増し、具体的には、全員で小額のお金を出し合い、いざという時そこから引き出して生活費などに当てるものだという。

 組合、すなわち「講」を作って相互扶助的な金融を行うという点で、確かに「無尽講」の一種に違いない。

無尽講は頼母子講(たのもしこう)ともいい、鎌倉時代からの金融の一方法で、『新版日本史辞典』(角川書店)の『たのもし』の項では、次のように説明されている。



 本来的には相互扶助的なものだったが、領主や寺社による費用調達、富裕層による蓄財などに利用されることもあった。近世に広く普及し、その基本的な方法は複数の人々で「講=組合」をつくり、金などを出し合い、それをくじ引きで講中の誰かが受けとり、そのようにして講中全員がそれを受け取るまで繰り返す。これによって困窮者が一時にまとまった金を得ることができ、家屋の新築や、牛馬の購入、屋根ふき、さらには寺社参詣などができた。



 無尽講が組まれる目的は庶民の相互扶助にあり、講を作って講のメンバーが一定金額を出し合い、くじ引きなどで順次全員にお金が戻されるという仕組みである。農村と年とを問わず、広く行われていた。

 幕府が違法として禁止していたのは、①退出(とりのき)無尽と②武家の無尽であった。


退出無尽とは、あたりくじを引いて、お金を受け取ったものは講を退会し、以後は掛け金を納めなくてもよいという仕組み(まさに取り退き、悪い表現だと取り逃げ)で、早くくじを引き当てれば大儲けできるが、他方でお金を全く受け取れない者と小額しか受け取れぬ者が出てくる。博打に似た性格の無尽だったので、博打を禁止していた幕府の方針に引っかかったのだろう。幕府の刑法展である「御定書百箇条(おさだめがき・ひゃっかじょう)」では、退出無尽を仕組んだ頭取は遠島、加わった者は家財没収の罰を科す、となっている。



 寛政七年(1795)、田沼意次の孫にあたる意明(おきあき)の家来、内藤角馬(ないとう・かくま)が、頼母子講となづけた無尽を組んだ罪を幕府から問われて処罰されたが、その判決の中で、武家の家来は、たとえ普通の頼母子講でも、やってはいけないと申し渡されている。武家の無尽は禁止されていた。また天明八年(1788)には、一万石の大名で代々にわたって伏見奉行を勤めていた小堀政方(こぼり・まさみち:1742~1803)この人は茶通で、かつ造園家として有名な小堀遠州の子孫だが、改易された。罪状のひとつとして家来が伏見の町人と手を組んで無尽講を企てたことが記されているという。



 

 退出無尽は、単純な仕組みなので摘発も簡単だったが、幕府の禁令の網を潜り抜けるため、かなり巧妙に仕組まれた、うさんくさい無尽も多かった。武家や公家たちによる違法な無尽が、文政年間(1818~30)特に上方で加熱したらしい。目に余ったのか大阪町奉行所は、内密に実態調査を行わせている。内命をうけて密かに調査した敏腕与力に大塩平八郎(1793~1837)がいる。無尽を行っていた武家・公家・寺社141名のリストを作成すると同時に、複雑なからくりを解明している。

 あたれば儲かるが、規模が大きく博打性が強く、明らかに違法だった。特にこの無尽講は、割戻金と、講習会ごとの飲食費などを差し引いても、なお七百十六両が残る仕組みで、それが「徳益(とくえき)」として、講元への収入になった。講元になるだけで七百両の金銭が手に入った。例の現代への換算では一億四千万円である。



 

 この手の無尽を盛んに行い、不当な方法で金を入手したのは、上方勤務の幕府役人で、大阪城代を勤めたのち老中に昇格した幕府の重臣たちの多くも不正な無尽に手を染めていた。大阪勤務は、大坂の金の魔力に取り付かれる様な誘惑が多かったらしい。大塩平八郎はビシビシ取り締まっているが、幕府としても、何もしないというわけにはいかず、大坂破損奉行(大阪城の修理をする奉行・旗本)ら数名を逮捕し、遠島、改易などの処分を行っている。



これは、摂津や河内の左官職人に大阪城の修理御用を請け負わせるよう破損奉行に願わせ、それが実現したときには、無尽講を組むことを約束させたという事件である。現代風に言えば、破損奉行は、その地位を利用して左官業者に公共事業の便宜をはかってやり、その見返りとして不正無尽の講元を贈られたと言う事になる。大塩は幕府のこんな処置では誰も納得しないと憤ったが、結局は、下級役人を処罰するだけで、幕府重職の不正無尽の問題は幕引きとなり、幕府高官たちは逃げ延びた。巨悪は無傷で生き延びたといった所か。この辺りから「大塩平八郎の乱」が始まるらしい。幕府の綱紀は大坂から崩壊を始めていた。


 無尽といっても、庶民の相互扶助的なものから、大名たちによる資金調達のための手の込んだ違法なものまで、さまざまあったようである。





引用本:『大江戸世相夜話』 藤田 覚著 中公新書