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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(241)大東亜会議「アジア解放」

 

 

昭和18年(1943)11月5日および翌6日の両日、東京で大東亜会議が開かれた。アジアのすでに独立国代表が、史上初めて一堂に会する機会を持った。そして、この会議は日本史の一ページを飾った。
 

参加者は満州国張 景恵(ちょう・けいけい)総理、中華民國汪 精衛(おう・せいえい)院長、タイ国のワンワイタヤコーン殿下、フィリピンのホセ・ペ・ラウレル大統領、ビルマのウー・パー・モウ首相、ほかに自由インド仮政府首班としてチャンドラ・ボースがそろった。ただしインドネシアのスカルノたちはまだ独立していないからとの理由で、会議終了後に参加した。

 

 大東亜会議は「アジアの傀儡を集めた茶番劇」とされてきたが、それは明らかな嘘だ。日本の「細部までに口を出すやり方」に閉口して不満を持ちつつも、各国首脳は、「欧米よりまだまし」とアジア解放方針に感動した。作家の林房雄の『大東亜戦争肯定論』には、「とうじ太平洋地域の全部を欧米の植民地化しようという動きがあって、日本は最後のターゲットだった。そしてABC包囲網で挑発され、ハル・ノートでいわば宣戦布告をされ、戦わざるを得ない立場に追い込まれた」との意味を書いているが、林房雄は「アジアの解放」といった発想はまだ持っていない。日本はいわばやむを得ず自衛戦争をした状況だったから、戦争の明確な目的はもっていなかった。あとから目的を考えたようなところがある。
 話が飛ぶが、ダグラス・マッカーサーはハルノートの存在と内容とを知らず、日本が自衛のための戦争をしたことは誤りではない、と後世述べている。 
 


大東亜構想を具体化したのは、「重光 葵(しげみつ まもる、1887~1957)日本の外交官・政治家・昭和の動乱期に外務大臣、東京裁判で有罪禁錮判決。仮釈放と赦免後、政界に再復帰、再び外務大臣、日本の国際連合加盟に尽力した」によるものだった。東条英機の発案ではないことに注意すべきだ。

 戦争末期に戦況が不利となり、国家と民族存亡の瀬戸際に直面するのではないかとの不安が漂い、戦後の世界で生き残れるか? 世界に向けて日本の戦争目的を的確に語っておく必要があるとの判断が上層部に生まれ、「重光構想」が検討された。「なかなかいいじゃないか?」と、早速実行され、大東亜会議開催となり東条英機首相が議長に選ばれ、アジアの心がひとつになった。インドのチャンドラ・ボースは、重慶の国民政府にラジオで語りかけ、「君たちはアジアの敵と組み、アジアの味方と戦っているのではないか?」と問いかけた。

 

 各地に「アジア解放」を信念として行動した日本人がたくさんいた。敗戦後のインドネシアで、故国への望郷の想いを捨て、対オランダ・インドネシア独立戦争に自発的に参加した、約一千名の日本兵がいた。間違いなく「アジア解放」との目的を信じ、実践した人たちだ。
 戦後交渉が不調だったとき、この大東亜会議でできた人脈で、どれほど日本が助けられたか案外知られていない。

 戦後、インドネシアのスカルノと日本の関係はあまりに有名だが、会議終了後に東京に到着したスカルノとハッタは日本の近代工業などを見学後、何回も天皇拝謁の練習をさせられ、そうとう不快になっていたが、拝謁のとき敬礼だけと思っていたら、昭和天皇は、自ら二人に向かって進み出で、手を差し出して握手を求めスカルノの手を握り周囲を驚かせた。スカルノは昭和天皇のファンになった。

 

 

 アジアの心が「アジア解放」のスローガンでひとつになったのは、欧米の有色人種差別があまりに過酷だったからだ。厳然とした事実がいくらでもある。

 インドネシアでは、オランダ人の直接統治が行われ、「強制栽培法」という政策が100年以上行われた。水田を強制徴収し、砂糖黍などヨーロッパで売れる商品作物の栽培に切り替えさせた。このため主食の米がなくなり、三毛作が可能なインドネシアで飢餓が発生、毎年数万人の餓死者を出した。

 インドネシア人は動物以下として扱われた。戦後、機会を捕えて、オランダにこの圧制に対し謝罪を要求するが、絶対に応じようとしない。酷いと思うかもしれないが、外交上の見識とはそういうものだと筆者は思う。謝罪すればいいというものではない。
 
 

 イギリスの蛮行はアヘン戦争で知られるが、他にも悪辣なことをした。裸の先住民を見つけると、まず服を身につけさせ、衣服の市場をつくって搾取、またインドで手織りの綿布をイギリスへ輸出する構造を、自動織機で叩き潰しインド人の仕事を奪った。食塩に課税するなど目茶苦茶なことをした。

 またアメリカに流していた犯罪人を、オーストラリアに送った。先住民のアボリジニは動物として扱われ、剣をもって白人の娯楽のため相互に戦わされた。30万人のアボリジニが6万人まで減少したが、イギリスはこれを放置した。

 1970年ごろ、世界の非難が集まるまで、家族は引き裂かれ、子どもは2,000キロ離れて収容され、集団で「近代化教育」を受けた。アボリジニの家族は完全に崩壊した。

 紙数が尽きるから他の国は省略するが、日本は台湾での義務教育普及率を95%にまで引き上げ、朝鮮でも同様だった。双方とも社会基盤をゼロから完全に整備した。朝鮮の方々は嘘を言ってはいけない。極貧に生まれ優秀だった戦後の、元朴大統領自身が、成績優秀者へは国家が援助する日本の教育システムの高等教育を授けたと本人が語っている。そんなものは植民地ではない。

 

 満州は基盤整備が日本国内より整い、暖炉にソファーの生活だった。祖国が惨めに見えるほど快適だった。治安がよかった。近代産業が進み、仕事を求め多くの中国人が集まったが、上手く行き過ぎ、コミンテルンの標的となった。関東軍だけで守るには広すぎた。
 インドネシアでは農民出身の日本軍兵士が「いやあ、懐かしいなぁ」との理由だけでインドネシア人と共に田に入り農作業をし、人々を驚かせた。

 

 大東亜戦争後60年を経て、極東軍事裁判による歴史観を見直すべき時期に到って久しい。この裁判では、すべてを「民主主義 VS ファシズム」という対立図式に無理矢理あてはめ、戦時における日本の行動を、すべて「ファシズムによる悪」と断罪した。シンプル過ぎるがわかりやすい。だが戦争の現実はそう簡単ではない。「戦争は国益の衝突」との常識さえ欠如していた。

 この裁判にもとづく歴史観に、戦後の日本が支配されてきたのは、まことに不幸だった。しかし、これほど単純な図式を見破れなかった戦後の日本国民は、やはりマッカーサーが言う十二歳程度だったのかもしれない。だが後年この人は「日本は悪くない。自衛戦争をしたのだ」と記している。十二歳の真意は、簡単な図式に隠される「これは虚構だからね、子どもでも分かるでしょ?芝居でもしないと示しがつかないでしょ?」とのメッセージが読み取れなかった
 
 

 戦後、バー・モウは「日本ほど白人支配からのアジア解放に貢献した国はない。しかし、助け教えてあげた国々から、これほどひどい誤解を受けている国はない」(『ビルマの夜明け』)と書いている。
 誤解しているいろいろな国の中に「日本国民」が含まれていることに、戦後日本の悲劇があると書くべきだろうが、むしろ幼稚なのだろうと筆者は考えている。
                       (敬称略)




参考資料:『大東亜会議の真実』深田裕介著 PHP新書 2004年