私、ペルテス病でした!
股関節が壊死してしまう病気で、原因不明。
私は左足の股関節。小1で入院。小2で退院。その後通院し、中3で完治しました!
私の場合、早期発見でした!
特に痛がる事もなく、歩き方がおかしいと両親が気づいてくれて、発覚!
先ずは近所の病院へ!
うちでは無理、総合病院へ!
近所の総合病院で入院する事になりましたが、歩いてはいけないので、トイレもベッドででした。
ナースコールを押すと、看護師さんが来てくれるのですが、それがもう、面倒臭そうなのが子供ながらに伝わって、段々ナースコールを押せなくなり、母が面会に来るまで我慢するようになりました。
そこの病院はすぐ退院出来ましたが、装具を着けての生活になり、免許も車も無い母は、私を毎日、雨の日でも自転車で送り迎えしてくれました。
しかし、小1の子供達は、正直すぎるというか、残酷というか、装具を着けた私に「足何本あるの?」慣れない松葉杖で転ぶと「変なの〜」と言われ、学校に行きたくないなぁと思う日々もありました!が、頑張って働く父!頑張って送り迎えしてくれる母の愛情がしっかり伝わっていて、「学校行きたくない」と言えませんでした!
それに、私を手助けしてくれる友達も居ました!学校には行きたい!が本心だったから!
そんな日々の中、両親が病院を変えるという一大決心をしました!
1つ目の病院では、女の子のペルテス病の症例が始めてで、かつ、将来通常に歩けるか保証も曖昧。何より、装具に負担がかかっていることや、病院の不誠実な対応。
はじめの近所の病院に戻り、紹介状を書いていだいて、神奈川県立子供医療センターに行きました!
入院は嫌な記憶しかないので、「入院はしないよ、検査だけ」の母の言葉を信じ、両親と小1の七夕に受診しました!
初診で待ち時間が長く、七夕の短冊に「入院しませんように」と書こうと思ったら、短冊売り切れ!
名前を呼ばれ、診察室で両親が話していました!
「入院です」の言葉だけが耳に入ってきて、父にしがみつき、がむしゃらに泣きました!泣いて暴れて、泣き疲れて寝てしまって、気がついたらベッドの上でした!
「あぁ、短冊に書けなかったから」とその時は本気で思いました。
でも、その両親の判断に今は、ただただ感謝です!インターネットも普及していない時代に、まれな病気にかかった娘を全力で守ってくれて、だから今、私は歩けます!走れます!
幼稚園の時習っていた剣道は、ドクターストップでしたが、水泳、バレーボール、スキー!沢山出来ました!
水泳は、選手コースでちょこちょこ大会にも出れました!
バレーボールは、高校生の頃私学関東大会に出場できました!
スキーは完全なる遊びですが、毎年冬山に行けました!
どれも一流ではないけれど!!
特に、バレーボールは、先生方始め、先輩後輩、勿論同学年と沢山の経験をさせてもらいました!
そして、今は航空自衛官という職業にもつけました!!
そして、3人の子供に恵まれて、無事出産しました。(出産は股関節に負担がかかるようで、毎回申告してます)
両親の判断が無ければ、私は今、普通に歩けていないかもしれなかったです!ありがとうございます!
入院後、1つ目の病院とは違って、母の代わりのような看護師さんばかりでした!
全身麻酔による検査を2回やり、麻酔後の嘔吐が苦しかった事、母の涙を見て、私の涙が溢れた事。検査の為の絶食の時に限って、美味しそうなスイカが出てたこと(笑)
隣の子は、片足がありませんでした!「バスに引かれちゃったんだ!お父さんが凄くびっくりしててね」と教えてくれました!
目の前の子は目が病気で、両目に眼帯を着けて生活していました!
「あっ、私は病気なんだ、私は普通じゃないんだ」となんとなぁく思い始めました。
暫く、お姉ちゃんに会ってないなぁ、会いたいなと思って過ごしながら「お姉ちゃんが病気じゃなくて良かった、私で良かった」とぼんやり思いました!お利口さんになりたいとかでは無く、小1ですからね、なんとなぁく、ぼんやぁり思ったのを覚えています!
神奈川県立子供医療センターには、肢体不自由施設や、横浜南養護学校があり、私は、肢体不自由施設に移動して、そこから、車椅子で病棟の隣の養護学校に通う事になりました!
肢体不自由施設に移動してからは、姉にも会えるようになったので、心が元気になっていった感覚を覚えています!
朝学校行って、お昼を食堂で食べて、リハビリして、また学校!
夜は、宿題と日記をして、お散歩!
遠足もありました!
リハビリは、足のリハビリ以外に、車椅子の段差とか、松葉杖の階段とかもやったなぁ、転び方とか!!
夜は、誰もいなくなった外来にお散歩に連れて行ってくれていたのです!ストレッチャーの子供や、車椅子だらけで、歩ける子供の方が少なかったかな!
そこで、親から貰っているテレホンカードを握りしめて、外来の公衆電話に大行列!!
家に電話して、おしゃべり!
その後はね、かくれんぼとかしていましたよ!
あの時は楽しかったぁ!今思うと、夜の病院でかくれんぼとか恐ろしい(笑)
ドクターもお父さんのように、時間を見つけては、肢体不自由施設のプレイルームで沢山遊んでくれました!
看護師さんや、養護学校の先生に憧れ始めたのも言うまでもありません!素敵な人達にお世話になっていました!
たまぁに、自宅に、帰れる外泊もあって、楽しかったなぁ!もう、わくわく止まらない!
面会のあととかは、やっぱり悲しくて、帰らないでーって皆泣いていたそうです!
私は、逆に泣いていなかったらしくて、耐えていたのかな?そこは覚えていないんですが、母曰く、「堪えて泣かれないのがまた辛かった」と。
↑ごめんね!!あまり、記憶にございません
ペルテス病になってから、「お姉ちゃんからお父さんとお母さんを取ってしまってごめんね」と言いたかったけど、ずぅーっと言えずに大人になり、20歳くらいの頃に、一緒にテレビを見ている時に、やっと姉に言えました!
あの時、姉は小5、小6の頃で、面会等で私に時間を割く両親をどぉ思っていたのだろうと、いつの頃からか考えて居た私がいて、ごめんねと言えた時、「そんなこと無いよー謝らないでいいよー」と優しい姉は言ってくれました!
母は当時、車の免許が無かったのですが、面会に交通の便が悪く、免許取りに通いました!そして、我が家は車を購入!外泊時には身体に負担が少ないようにと、ソファーも購入!特殊な装具の為、母は、私の下着を既製品から手直し!
手術して治すという選択もありましたが、幸い、早期発見で、手術しなくても、時間はかかるが大丈夫と、言われ、女の子だから傷は残したくないと長期治療を選択した両親!私が親になった今、子供と長期離れて暮らすということの辛さが分かります!でもでも、全て、私の為、相当な家族愛に包まれていました!
あのペルテス病は、何故私がなったんだろう?と思った事は何度もあります!
でも、ペルテス病が無かったら、今の私は無いとも思います!
命の大切さ、健康の有り難さ、両親、姉、家族の愛情、看護師さんや、ドクター、養護の先生達からも、そして、同じ身体が不自由な友達達からも、本当に言葉では言い表せられないものを学びました!
桃花がアラジール症候群と分かってから、マイナスばかり考えてしまっていたけど、プラスについても考えてみようと、自分を振り返って思いました!
目覚めてしまって、急に長文になってしまいました!