蓬山田のブログ

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とりとめのないこと。

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あるブログを見て、いじめをする奴は許せない。いじめられる奴に問題があるとか言ってる奴も許せない。いじめるやつになんて(いじめられてる本人が)鉄拳制裁をするべきだ。そうすればいじめはなくなる。

と書いてあるブログを読んだ。確かにいじめられた経験がある人にとって、いじめられた経験というのはきっと許しがたい経験だと思うし、いじめる側(以降加害者、いじめられる側を被害者とする)には制裁があって然るべきであるというのもわかる。さらに加害者が制裁を受けることによって抑止の力が働く。それによっていじめはなくなるという理論もわからなくもない。

しかし、このような発言ができるのはいじめをなんらかの形で乗り越えた(乗り切った)上での考え方ではないだろうか。すなわち、”その人”の過ぎ去ったいじめという結果から導き出された、過去に対しての考え方である。

まわりくどい言い方になってしまった。要は、その人自身の解決されたいじめの経験なんていうのは、今いじめられている被害者に対しては必ずしも助言になるとは言い切れないし、個々のいじめのケースにあてはまらないと思う。


いじめというのは非常に難しい問題である。上記のように鉄拳制裁で解決というのができたら、この世からいじめはもうなくなってしまうかもしれない。いや、鉄拳制裁なら逆説的には現在の方がいじめは増えてしまうか。

そのような難しい問題に対して、偉そうに、俺がいじめられていたときはなぁ!とか、加害者を殴ればいいなどと安直なことは不適切なのではないか。

確かに一理はある気がしないでもない。実際私自身もいじめに悩んでいる人間に向かって言った覚えがある。しかし、この理論からすれば、加害者を殴れない人間がいじめられるという、上記のいじめられるやつには問題がないという理論を崩壊させているのではないか。

だっていじめてるやつを殴れれば、いじめは解決する。ではいじめ続けられている人間は一体何故いじめられている?

加害者を殴れないからなのだろうか?

この理論は非常に危うい。間違ってないかもしれないが、これこそ、逆説的に力のあるやつが偉い、ともすれば資本主義の悪しき暗黙の考えのようにも受け取れる。

さらに言うならば人間創生からのアニミズム的な生け贄理論、宗教における神の必要性のような、スケープゴートの必要性にも論を発展させることができる。

だが、いじめのような問題を論じるときに、そのような机上の空論的な理論展開は的をはずした議論になる気がする。

ひたすら論を展開するのではなく、もっといじめについて実情に則した議論をしなければならないのではないだろうか。

最初に戻ってしまうが、そう考えるなら、上記のような鉄拳制裁理論の方が経験に基づいてる故に、現実的なのかもしれない。

こうしたらいじめはなくなる、こういう制度を作ったほうがいい、教師が、学校が、地域が、友達が、コミュニケーション能力が、社会風潮が、教育の質が、


議論を離れて、解決策を考えようにも、どれも机上の空論のように響いてしまう。

実際の取り組みや、それにおける効果を調べて、実際に被害者、加害者の言葉を聴くことがより深く考えをまとめる道しるべになるかもしれない。