大人になるとは、自分の中にある

「少年」を開花させること。

大人になりそこねたのが「おじさん」だろうか?

社会を牛耳る「おじさん」たちは、少年が開花した大人ではなくて

「おじさん」なんだ。

仕事=利権にありつくこと、なんてことでは

世の中良くならないだろう。

ニコニコ動画で入手した『ぼくたちの近代史』を

繰り返し聞いています。

原っぱで遊ぶ子供たち、橋本治の幼少期を語る部分はまるで

映画を見ているように情景が目に浮かび感動を呼ぶ。

講演の中で、(1987年時点で)最近の20歳くらいの

人たちは嫌い・・・・といわれたジャストな世代の私。

出身は東京ですが、小学生時代田舎に3年間いた経験アリ。

東京では同学年、しかも同じクラスの友人と遊ぶということが主流だったが、

私のいた田舎では、地域の子供たちが6年生をリーダーとして皆で遊んでいた。

低学年の子に、「えいっ」と高いところから飛ばせる・・・なんて箇所は

その通りのことをしたし、させられたので、なつかしかった・・・

橋本治の幼少時代の遊びには、「そうそう!!」と自分の

思い出と重なる点が多いのだが、一点大きな違いがある。

それは、遊びのなかに「女の子」が入ってなかった点だ。

過剰に男女の性差を意識していて、女の子と遊ぶということは

あまりなかった気がする。

これは、今後「原っぱ」を作っていくうえで、どういうことなのか

じっくり考えてみたい点です。


一度も遊んだことがないような人たちが作った「制度」に

がんじがらめになるのではなく、自分たちでルールを作って

生きていけるように。
「批評」というのは、「事の本来性を探る営み」である。

だから私は、「批評」というのは、究極のところでモラルなのだろうと思う。

・・・・・

モラルというのは「生きるための秩序」だから、これを無視したら自滅しかない。

・・・・・

「本来」というのは「過去にあったように錯覚されて、しかも過去には存在しない、

未来にしか存在しえないあり方」というややこしいもの・・・・


モラルというのは、人から与えられるものではなく、「人と共有しうる調和性」なのだ。