石井豊喜 先生


大正11年(1922年)生まれ
仙台陸軍幼年学校から、陸軍仕官学校56期。
終戦時、陸軍大尉。シベリアに4年間抑留。

「最も過酷」と言われるタイシェット・バム鉄道の線路敷設業務に使役させられました。

マイナス30度にもなる中、人跡未踏の林野をひたすら伐採する作業です。
夜は初めのうちは、猛吹雪の中を雪の上にテントを張ってその中で眠る生活。
ちょっと想像を絶する世界です…。 

石井豊喜 先生のお話
2015年 93歳時のインタビュー

Q.シベリアで一番苦しかった事は何ですか?

A.精神的に希望が無いわけでしょ。
帰れる希望が無い。或いは「誰の為の労働か」という目的が無い生活。これ以上のみじめは無い。
日本軍人の誇りは隠してないですよ、そのまま。
しかし、共産教育に染まった人はいました。
若くして初めて接する人は昔の日本の歴史を知らないでしょ。
そこに共産思想を注ぎ込む。若い人は染まっていく。情けないですよね。
戦後の日本の教育は、日本に対し否定的でしょう。
その教育を受けたらその教え子はみんな…。
そういう風潮が、日本の戦後教育です。
学会がそういう流れなら、学生はみんなそういう流れになる。
私はそれを否定しませんよ。しかし、そういう流れがあったと。

Q.先生はソ連軍になびかなかったわけですよね…。

A.ひとつの奴隷みたいなもんで、抑留は。
60万人の将兵が抑留されたわけでね。
ソ連としても…ソ連に協力したら早く返すんです。
私みたいに逆らってるのは後回しです。
命を捨てたつもりで、私はことごとくソ連軍に反対しましたから…。
だから4年も帰されなかったんです。
自然にそうなるわけですよ。
あの国は密告制度で…。
そこで私は、日本人は情けないなと思った。
ドイツ人の方がむしろ、彼らは騎士道でやり合ってるから、慣れてますよ。
「今はやられてるけど、そのうちにロシアをやるんだ」と。そういう意気込み。
日本人は初めてだから、そこまでの気概の人が少ない。

Q.マイナス40度で作業するわけですか…?

A.マイナス45度よりも下がったら、ストップ。
そんな所に出てったら死にますよ。それ以下は無いです。
だいたい、マイナス30度40度になると、ちょっとまともに働けないです。
せいぜいマイナス30度までです。

Q.何を心のよすがにして兵隊さんは働いてましたか? 

A.何が何でも帰りたい。それだけです。
生きる希望というのは、「何の為に働いてる」とかあれば…。
しかしそういう希望が無かったら…。
きついのは、飢餓状態です。
ひどい時は、朝起きたら、隣で起きてこなかったとかね…。
本当に具合が悪ければ動けないですから、だから休めるわけですな。

※②に続く...