週間になるほど毎日ブログというものを書き続けているが、どこまでいってもブログの難しさとか複雑さにぶち当たっている。別にネタが無くなってくるとかじゃなくてねwwそういうブログでもないですしね。
たとえば書き手としては抽象的な話に持って行く時にどうしてもカットできない表現があるでしょ?「この一言はなにげなく見えて全体のテーマ性にかかわってくる」みたいなね。まあその表現も時間の関係で自分の意図を100%表すのには不十分だったりするんだけど
一方で読者側、コメントする側としてはコメント欄としておさめるために自分なりに中身を再編集しなきゃいけないわけでしょ?文章の内容に共感できるかどうか以上にその編集のセンスに共感できるかどうかが書き手と読者の関係性を規定する気がする。
なんで今更そんな話をしているのかといったら僕は両側の立場からミスしたこと何度もあるよなあと思ったんです。「うわー、俺色々浅いことしてたな~」みたいなね。文章力もなければ読解力もないと言えばそれまでなんですけどwww
多分僕の根源にある信念みたいなのがすげえ分かりづらいしひねくれてるからだと思うんですよ。おそらく落語的観点にだいぶ引っぱられてる部分はあると思う。たとえば僕がよく言う「人間の弱さを肯定する」とか「感情注入」とかね。
こういう自分なりの言葉を読者と共有していくためにはやっぱり時間と文字数が必要なんですよね。分かりやすい形で呈示していた所から少しづつ自分の形に引き寄せて行く。昔書いた記事とか実はもう一度編集しなおそうかなと今考えてるんですよね。駆け出しのころに書いた記事に多少変化した今の自分の視点も加えて行くことでこれからその記事を読む読者さんにとってもう一個段階上の記事にならないかなと考えてね。
これ僕夕方更新で片づけようとしてるけど本当に難しい問題なんですよ。「物事はサイコロの目のごとし。どこから見るかでその目が変わる」と言いますよね。つまり物事ってその形態に絶対の価値があるんじゃなくてどの視点から見るかで価値が変わってくるものだと思うんですね。
結果としての感情の共有されるより、意見はともかくどの視点から相手は見ているのかを正確に把握したほうが両者にとって建設的なんですよね。なんかそういうところでね、特に最近迷惑かけてる気がする。色々自分勝手にわめき散らしてることで。
いつも通りまとまりませんでしたけど、まあ単なる僕の懺悔録だと思って下さい。書き手としても読者としてももうちょいちゃんとした感性を持ちたいなあ…
たとえば書き手としては抽象的な話に持って行く時にどうしてもカットできない表現があるでしょ?「この一言はなにげなく見えて全体のテーマ性にかかわってくる」みたいなね。まあその表現も時間の関係で自分の意図を100%表すのには不十分だったりするんだけど
一方で読者側、コメントする側としてはコメント欄としておさめるために自分なりに中身を再編集しなきゃいけないわけでしょ?文章の内容に共感できるかどうか以上にその編集のセンスに共感できるかどうかが書き手と読者の関係性を規定する気がする。
なんで今更そんな話をしているのかといったら僕は両側の立場からミスしたこと何度もあるよなあと思ったんです。「うわー、俺色々浅いことしてたな~」みたいなね。文章力もなければ読解力もないと言えばそれまでなんですけどwww
多分僕の根源にある信念みたいなのがすげえ分かりづらいしひねくれてるからだと思うんですよ。おそらく落語的観点にだいぶ引っぱられてる部分はあると思う。たとえば僕がよく言う「人間の弱さを肯定する」とか「感情注入」とかね。
こういう自分なりの言葉を読者と共有していくためにはやっぱり時間と文字数が必要なんですよね。分かりやすい形で呈示していた所から少しづつ自分の形に引き寄せて行く。昔書いた記事とか実はもう一度編集しなおそうかなと今考えてるんですよね。駆け出しのころに書いた記事に多少変化した今の自分の視点も加えて行くことでこれからその記事を読む読者さんにとってもう一個段階上の記事にならないかなと考えてね。
これ僕夕方更新で片づけようとしてるけど本当に難しい問題なんですよ。「物事はサイコロの目のごとし。どこから見るかでその目が変わる」と言いますよね。つまり物事ってその形態に絶対の価値があるんじゃなくてどの視点から見るかで価値が変わってくるものだと思うんですね。
結果としての感情の共有されるより、意見はともかくどの視点から相手は見ているのかを正確に把握したほうが両者にとって建設的なんですよね。なんかそういうところでね、特に最近迷惑かけてる気がする。色々自分勝手にわめき散らしてることで。
いつも通りまとまりませんでしたけど、まあ単なる僕の懺悔録だと思って下さい。書き手としても読者としてももうちょいちゃんとした感性を持ちたいなあ…