豊臣秀吉
1536または37~98 戦国期~安土桃山時代の武将。のちに天下人。はじめ木下藤吉郎秀吉、ついで羽柴(はしば)姓、さらに豊臣姓を名のった。父は尾張国愛知郡中村(名古屋市)のまずしい足軽 だったという。幼名を日吉丸といい、織田信長 の草履(ぞうり)取りから、才覚と機敏な行動によってとりたてられ出世したとされる。しかし、その前半生については、ほとんど確かなことはわかっておらず、逸話の多くはのちにつくられた伝説である。
はじめて確実な史料にあらわれるのは1565年(永禄8)で、織田信長の文書に「木下藤吉郎秀吉」の名で副状(そえじょう)をだしており、このころにはすでに信長の有力な家臣のひとりとなっていた。猿というあだ名だったとされるが、信長は秀吉の妻の寧々(ねね)あての手紙で、秀吉のことを「禿鼠(はげねずみ)」とよんでいる。
少年時代に駿河(するが)の今川氏の家臣、松下之綱(ゆきつな)につかえたといわれるが、確かではなく、織田信長につかえた時期も、1565年以前のどの時点かはっきりしない。信長の家臣となって以後は、その天下統一にしたがってめざましい戦功をあげ、頭角をあらわした。信長の入京後は京都周辺の政治を担当し、73年(天正元)に近江(おうみ)の浅井長政 が滅亡すると、その旧領の北近江3郡をあたえられ、近江長浜城(滋賀県長浜市)主となった。このころから筑前守を名のるようになったらしく、また、木下姓をあらためて羽柴姓を名のる。羽柴姓は織田家の宿老の柴田勝家 と丹羽長秀にあやかったものという。
以後、信長の部将として各地に転戦し、柴田勝家のすすめる北国平定などに出陣。1577年には信長の命をうけて中国攻めを担当することになった。このころ、信長の家臣としては、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益(かずます)、明智光秀 らとならぶもっとも有力な部将となっていたが、なかでも、信長がいちばん目をかけていたのは、秀吉だったと思われる。中国攻めの総大将に抜擢(ばってき)された秀吉は、播磨(はりま)三木城(兵庫県三木市)の別所長治をうち、吉川(きっかわ)経家のまもる因幡(いなば)鳥取城を兵糧(ひょうろう)攻めにしておとし、82年には備中の高松城(岡山市)をかこんだ。
1582年、高松城を水攻めにして、その救援にかけつけた毛利氏の大軍とにらみあっているとき、明智光秀による本能寺の変 がおきて信長が没した。変を知った秀吉は、ただちに毛利氏と講和すると、有名な「中国大返し」でいそぎ軍をかえし、山崎の戦 で光秀をうった。つづく清洲(きよす)会議で、信長の長男信忠の遺児である三法師(秀信)を織田家の跡目とし、三法師の後見人となった。
この後、信長死後の主導権をめぐり、柴田勝家や信長の3男の信孝と対立、翌1583年の賤ヶ岳の戦 に勝利し、越前北庄(きたのしょう:福井市)に勝家をほろぼした。同時に、勝家に味方した信孝を自殺させ、滝川一益をくだして、信長の後継者の立場を確立すると、同年、石山本願寺 の跡地に大坂城 をきずいて本拠とした。
1584年には信長の2男織田信雄 ・徳川家康 の連合軍と尾張小牧・長久手にたたかったが、決定的な勝利をえられず、まず信雄と和睦(わぼく)し、ついで自分の異父妹の朝日(旭)姫を家康の夫人としておしつけて家康と和睦した(→ 小牧・長久手の戦 )。ただし、家康が上洛して臣下の礼をとるのは、86年になってからである。秀吉はそのために、生母の大政所(おおまんどころ)まで人質として家康のもとにおくっている。
小牧・長久手の戦までの秀吉は、朝廷にあまり関心がなかったが、この戦いののちは、にわかに朝廷の官位の上昇に必死となった。武力で徳川家康を負かすことができなかったため、天下人としての名目を必要としたのである。名目としては、将軍でもよかったが、朝廷の官職に目をつけたのは、先に信長に追放され毛利氏のもとに保護されていた、室町幕府第15代将軍足利義昭 に将軍職をゆずるよう交渉して失敗したからともいう。
1584年に従三位権大納言(じゅさんみごんのだいなごん)に叙任されて公卿(くぎょう)に列した秀吉は、翌85年3月、正二位内大臣となり、同年7月にはついに、前関白の近衛前久(このえさきひさ)の猶子(養育の義務のない養子)として関白 になった。以後、関白という朝廷最高の官職を利用し、天皇の名において天下統一をすすめる方法をとる。
さらに、1586年には信長以来の懸案だった正親町天皇(おおぎまちてんのう)の譲位と、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)の即位を実現、太政大臣 に任じられ、天皇から豊臣姓をあたえられた。この年にはまた、前久の娘の前子を養女にして新天皇の女御(にょうご:皇后にあたる)とし、天皇の外戚という身分をつくった。
1587年には、秀吉の企画、千利休 らの演出による北野大茶湯 を開催して、太平の世をもたらす関白政権を宣伝し、また、同年には京都内野に聚楽第 を新築、後陽成天皇をむかえ、家康ら諸大名に忠誠をちかわせて政権の基盤をかためた。
この間、1585年には四国の長宗我部元親 、87年に九州の島津氏をくだしたが、島津攻めにあたっては、関白政権という名目を前面にだした。すなわち、九州の諸大名に対して、領土争いは関白秀吉の裁定にまかせ、大名間の戦争を私戦として禁止すると命令、これを無視して北九州の制圧をすすめる島津氏を、公の軍隊で征伐するというかたちをとったのである。
秀吉は関東および東北にも惣無事令(そうぶじれい)を発しており、1590年にはこれに違反して私戦をつづけた関東の後北条氏 をほろぼした。この小田原攻め の際、東北の伊達政宗 なども服属したため、ここに天下統一は完成した。
天下統一を完成した秀吉は、翌1591年、側室淀君 が生んだ鶴松がわずか3歳で死亡したこともあって、関白を甥で養子の秀次にゆずり、みずからこのんで太閤(たいこう:関白をゆずった者)と称すると、かねて構想していた明への侵略をはかって、92~98年(文禄元~慶長3)に2度、朝鮮半島に出兵した(文禄・慶長の役 )。この朝鮮出兵のために秀吉は、北九州に前線基地となる名護屋城 をきずいたほか、全国の石高と家数、人数などの調査をおこなっている。
しかし、朝鮮での戦局は思うように開けず、この間の1593年に淀君が第2子(のちの豊臣秀頼 )を出産すると、関白秀次の存在が邪魔になった。95年には謀反の疑いをかけて秀次を自殺させ、その妻妾や子供を皆殺しにした。この直後、大名、寺社、公家を統制する法令がだされ、大名が勝手に盟約をむすぶことなどが禁止された。この法令は、徳川家康・毛利輝元ら有力大名の連署でだされたが、このような政権の組織化は、死の直前に五大老 ・五奉行 制として完成した。
しかし、時すでにおそかった。長びく朝鮮半島での戦争は、諸大名の間に深刻な対立をひきおこし、人々は戦費負担にあえいで、国内は重くるしいムードにつつまれた。それをわすれるかのように、1598年春、秀吉は盛大に醍醐寺 三宝院で「醍醐(だいご)の花見」をもよおしたが、その後、心身ともに衰えがはげしく、同年8月、ひたすら幼少の秀頼の将来を心配しながら伏見城 で死去した。
死にのぞんでの辞世(じせい)は「露と落ち露と消へにしわが身かな、難波(なには)の事も夢のまた夢」だった。死後、朝廷から豊国(ほうこく)大明神の神号がおくられ、京都の豊国(とよくに)社にまつられた。秀吉の死で朝鮮に出兵した諸大名の軍も全軍帰還した。
秀吉は国土を統一しただけでなく、石高制 による全国同一の基準による検地(太閤検地 )や、刀狩 をおこなって兵農分離 をすすめ、武士や百姓、商人、職人の身分の固定化をはかるなど、織田信長の事業をさらに徹底させた。
太閤検地は山崎の戦の直後から開始し、天下統一の事業と並行して全国におよぼされた。九州島津攻めの後には、博多と長崎を直轄にし、伴天連追放令 をだして、海外貿易の統制と独占をはかり、翌1588年には、刀狩令と海賊禁止令をだしている。また、侍身分の者が農民や商人になること、農民が商人や職人になることを禁止するなどの身分統制令 は、小田原攻めの翌91年にだされた。
これらの政策は徳川家康にひきつがれ、江戸幕府の支配方式である近世幕藩体制 の基礎となった。豊臣政権は、秀吉の独裁政権であり、その点、秀吉の天才的な能力をみとめないわけにはいかない。ただし、その天才も晩年にはかなり異常な状態になっていたらしい。実子秀頼を溺愛(できあい)し、秀次の縁者を残酷なやり方で皆殺しにしたこと、文禄・慶長の役の最中に発表した日本・朝鮮・中国3国の国割案などは、被害妄想、誇大妄想といえるものであった。
秀吉の一生については、多くの伝記があり、真偽とりまぜてさまざまな伝説にいろどられている。そうした伝説は、すでに秀吉の生存中からあった。低い身分から天下人になりあがったという劣等感があったため、秀吉みずから自分の前半生を脚色しようとしたものらしい。天皇の子であると思わせるようなことを、自分からいっていたようだし、さらには、朝鮮や台湾への外交文書で、自分が生まれるとき、母は太陽が体にはいる夢をみ、その夜は日光が産所にかがやいたと書いている。
やがて江戸時代には、小瀬甫庵(おぜほあん)著「太閤記」をはじめ、何々太閤記と題する伝記が次々と書かれた。それらは総称して太閤記 とよばれるが、ほとんど小説に近いものもあり、創作されたエピソードが多くふくまれている。有名な三河の矢作橋(やはぎばし)での蜂須賀正勝(小六) との出会い、美濃の墨俣城(岐阜県大垣市 )を一夜で築城したなどの逸話は事実ではない。
なお、江戸時代の重くるしい身分社会にくらす庶民は、まずしい身分から一躍天下人にまでなりあがった、「豊太閤(ほうたいこう)の出世物語」に素朴な共感をよせたが、秀吉が専制権力者であったという点をみうしなってはならない。また、近代 のある時期、日本の大陸侵略と関係して、秀吉の朝鮮出兵を「豊太閤の一大事業」とたたえる風潮があったことも注意しなければならない点だろう。
徳川家康
1542~1616 江戸幕府 初代将軍。三河 の岡崎城(愛知県岡崎市 )城主、松平広忠(ひろただ)の子として同城で生まれる。幼名は竹千代で、これは、三河統一の途上で暗殺された祖父清康(きよやす)の幼名にちなむという。母は刈谷城(愛知県刈谷市 )城主、水野忠政の娘の於大(おだい。法号は伝通院:でんづういん)。
なお、於大の母の華陽院は水野忠政との間に末娘の於大のほか数人の子を生んだのち、広忠の父清康の後妻となっており、広忠と於大は義兄妹どうしの結婚ということになる。
松平氏は清康の死で弱体化したため、広忠は生きのこるため、東から三河を侵食してくる大勢力の今川義元 に属して、西の新興勢力である尾張 の織田信秀に対抗しようとした。しかし、広忠は尾張勢との戦いに敗退し、重要拠点の安祥城(あんしょうじょう:愛知県安城市 )をうしなう。水野忠政の跡をついだ信元(於大の兄)は、この情勢をみて織田方についたため、広忠は1544年(天文13)に於大を離別、翌45年、三河の田原城(愛知県田原市 )城主、戸田康光の娘を後妻にむかえた。以後、今川氏への依存をより深め、嫡子の竹千代は人質として駿府(すんぷ:現、静岡市)の今川氏のもとにおくられることとなった。
1547年、竹千代の一行は岡崎をたち田原に到着したが、義理の祖父にあたる戸田康光は織田方に心変わりしており、康光にうばわれて織田信秀のもとにおくられてしまった。後年、家康のかたるところによれば、このとき康光が織田信秀から褒賞(ほうしょう)としてえたのは、わずか永楽銭 1000(500とも)貫文(かんもん)であったという。信秀は竹千代の命と引き換えに広忠に服属をせまったが、広忠は勝手にせよといってとりあわなかったといわれる。
織田氏のもとでの人質時代がつづく中、1549年、父の広忠は今川氏の後援で攻勢に出るが陣中で暗殺された。主をうしなった松平氏は壊滅同然となり、岡崎城には今川氏の城番が入って今川氏に帰属することになった。今川氏はさらに三河支配をすすめるため、安祥城をせめて織田信秀の子で城主の信広をとらえ、竹千代との人質交換をおこなった。このため、竹千代は今度は駿府城での人質生活をおくることとなった。
1555年(弘治元)、竹千代は元服して松平次郎三郎元信と称し、57年には今川氏重臣の関口義広の娘の築山殿(つきやまどの)と結婚し、このころに元康と改名した。このときの「康」の字は、松平氏中興の祖にあたる祖父の清康にちなむと推測されている。
元康は今川氏属下の一武将としての道をあゆみ、1560年(永禄3)には尾張に侵攻した義元の先鋒(せんぽう)として大高城(おおたかじょう:名古屋市緑区)への兵糧(ひょうろう)搬入に成功して守衛についたが、義元が桶狭間で敗死したことで生涯の転機をむかえる(→ 桶狭間の戦 )。
元康は人質の身を脱して、今川氏兵力がひきあげて空城となった岡崎城へ帰還し、旧松平族党の人心掌握につとめた。そのうえで翌1561年、水野信元の仲介で織田信長 と和睦(わぼく)した。この協定で両者の境界が画定し、以降は織田は西へ、松平は東へせめることと、そのときに自力におよばないことがあれば、たがいに加勢することがさだめられた。
この協定で西の脅威をとりのぞいた元康は西三河を掌握。さらなる飛躍のため、信長との提携を強め、1563年、長男の信康と信長の娘の徳姫との婚約をとりむすんだ。このころ名を家康とあらためているが、これまでの今川義元にちなむ「元」の字をすてることで、自立の意志をしめしたものと推測されている。
1563年秋、東三河に兵をすすめようとする家康に、西三河で一向一揆 の危機がおそった。一揆が発生した直接の原因については諸説あるが、そもそも一向宗の有力な地盤である西三河に領主支配を確立しようとすれば、各地の土豪層が拠(よ)る門徒組織、ひいては本願寺教団との対立はさけられないものだったともいえる。これまで苦難にたえて結束してきた松平氏の譜代家臣も、信仰と主従関係の対立から分裂する事態となったが、家康みずから槍(やり)をとって奮戦し、翌64年の春ころには一揆の鎮圧に成功した。
一向一揆を克服した家康は、土豪層を家臣団として編成し、その後は順調に父祖以来の悲願である三河統一を成功させた。そして1566年、朝廷に奏請して従五位下三河守に任じられて三河統一を天下に宣言した。このとき旧姓といわれる徳川氏 に復姓した。徳川姓は清和源氏(→ 源氏 )新田氏末裔(まつえい)とされるが根拠がなく、分国 大名となった家康が、鎌倉幕府、室町幕府という武家政治秩序への自覚から改姓をおこなったと考えられている。
1569年、家康は兵をすすめて今川氏真(うじざね)を掛川城(静岡県掛川市 )から排除、遠江 半国を制圧した。これは前年に、武田信玄 から今川氏の領国である駿河 と遠江の分割をもうしこまれたことによる動きという。ただし、この協定は大井川 を境としてそれぞれの働きしだいとされており、武田氏が駿河の地をせめとったため、いそいで遠江に侵入して領国の拡大をはかったものであった。
翌1570年(元亀元)、これからの遠江支配のためには旧来の岡崎では西すぎたため、遠江国引馬(曳馬:ひくま)に居城をうつし、同地を浜松と改称した。居城の移転と前後して、織田信長の要請に応じて姉川の戦 に参陣、奮戦して信長に勝利をもたらした。その後は近江 に一度出陣したものの、信長の畿内(きない)での転戦には参加せず、圧力が強まる武田勢の動きに対した。
1572年、信玄が大規模に兵をうごかして遠江と三河に侵入してきたため、家康は遠江三方原 でむかえうつが大敗北におわった。戦いの前、信長や老臣は挑発にのらず自重するよう進言したが、家康はだまってみのがせないと、籠城戦(ろうじょうせん)をすてて決戦をいどんだといわれる。このときは信玄の死去で難をのがれたが、その後も、信玄の子武田勝頼 による三河と遠江の侵入がつづき、要衝の高天神城(たかてんじんじょう:静岡県掛川市)をうばわれた。しかし75年(天正3)、勝頼が三河に侵入すると、信長とともにむかえうち、長篠の戦 で勝利をおさめた。ただし、これで武田氏が壊滅したわけではなく、その後も遠江東部を中心に勝頼との軍事的緊張がつづいた。
この軍事的緊張は、1579年、妻の築山殿を処刑し、長男の徳川信康を自殺させるという悲劇を生む。信康の妻の徳姫が父の信長に、姑(しゅうとめ)築山殿と夫信康が武田氏へ内通しているとうったえたためといわれるが、このころ岡崎にいた信康と浜松にいた家康は、意思の疎通がうまくいっていなかったという。
この後、家康は地道に遠江の経営に専念し、1581年に高天神城を奪取して遠江をほぼ平定。翌82年、信長の甲斐 侵攻で武田氏が滅亡すると、恩賞として駿河をあたえられた。ついで本能寺の変 がおきると、畿内で敵にうたれる危機を脱して帰国、甲斐および信濃 に兵を出して後北条氏 と対陣した。やがて後北条氏と和睦がなり、結果として甲斐と信濃を手にいれる。この和睦には、北条氏政 の子の氏直と家康の娘の督姫の結婚による姻戚関係(いんせきかんけい)の成立があった。
家康が甲斐と信濃の経営をすすめる間に、中央では羽柴(豊臣)秀吉 が明智光秀 、ついで柴田勝家 をたおして台頭し、天下統一の道をあゆみはじめていた。1584年、信長の2男の信雄 の要請に応じて秀吉と小牧・長久手の戦 をおこない勝利をおさめたが、信雄が屈服したため兵をおさめた。
その後は秀吉との外交戦がつづき、家康は次子の秀康を秀吉の養子としておくることを承認したが、みずからの上京はことわった。翌1585年、関白 となった秀吉のもとに重臣の石川数正が出奔するという事態をまねいたが、軍法を改正して家臣団を再編成することで、危機をのりきった。そして86年に、秀吉が異父妹の朝日姫を家康にとつがせ、さらに母の大政所(おおまんどころ)を朝日姫の介添えに浜松におくることをもうしでたため、ようやく上洛(じょうらく)し、秀吉と会見するにいたった。
秀吉に臣従しながらも、政権下での独自の位置をみとめさせたこの年、家康は手にしてまもない領国経営のため、居城を駿府にうつした。1589年には三河、遠江、駿河、甲斐、信濃の5カ国に定書(さだめがき:朱印状)を発令し、領国の支配体制を強化。また、いわゆる五カ国総検地を開始している。しかし90年、秀吉の小田原攻め にしたがい、後北条氏 の滅亡によって関東へ移封されて江戸城 に入った。
この移封のとき、先祖伝来の地から切りはなされる家臣の多くは悲嘆したが、家康は新領国で多数の兵をやしなえるのだから、おそれることはないとはげましたとつたえられる。250万石を領する、秀吉政権下で最大の大名として重きをなし、文禄・慶長の役 では渡海せず、領国経営につとめた。1596年(慶長元)には内大臣 に昇進し、のち設置された五大老 の筆頭として秀吉死後の政務をとりしきった。
しかし、家康が獲得した地位は後見にすぎず、まだ名実あいともなう天下統一者ではなかった。そのためには、政権の維持をはかる勢力との対立はさけられなかった。1600年(慶長5)、関ヶ原の戦 に勝利すると、所領の没収や、減知転封と加増転封により全国的規模で大名たちの移動をはたし、権力がだれの手にあるかを知らしめた。
1603年、天皇によって征夷大将軍 に任じられ、全国の武家に君臨する権限を獲得し、江戸幕府 を開いた。05年、その職を跡継ぎの徳川秀忠 にゆずり、豊臣氏が依拠した関白とは別の権威を徳川氏が世襲、独占し、徳川氏がこの権威を頂点として新しく秩序を構築することを全国にしめしたのである。→ 幕藩体制