北條氏康
1515~71 戦国期の武将。後北条氏 第3代。相模(さがみ)を本拠とした戦国大名 の北条氏綱の子。1541年(天文10)家督をつぐ。46年武蔵河越城の戦(河越夜戦)で古河公方 足利晴氏と扇谷(おうぎがやつ)・山内(やまのうち)両上杉氏 の連合軍をやぶって扇谷上杉氏をほろぼし、52年には関東管領 山内上杉憲政(のりまさ)を上野(こうずけ)から越後へと追って関東全域に勢力を拡大した。同年、古河公方晴氏にせまって家督を自分の甥(おい)足利義氏にゆずらせた。54年(天文23)甲斐(かい)の武田信玄 、駿河の今川義元 と三国同盟をむすび、61年(永禄4)小田原にせめよせた上杉謙信 の大軍をしりぞけた。
この間、税制の改革、検地の実施、貨幣制度や伝馬制の確立など民政にも力をそそぎ、1559年(永禄2)には家臣の軍役をさだめた「小田原衆所領役帳」を作成して領国経営の安定をはかった。同年、家督を子の氏政にゆずったが、以後も氏政を後見して、後北条氏の全盛期をきずいた。
(1571年に病没)
武田信玄
1521~73 戦国期の武将。名は晴信、出家して信玄と号した。清和源氏の子孫で甲斐(かい)を本拠とした戦国大名武田信虎の子。1541年(天文10)粗暴なふるまいで家臣の支持をうしなった父信虎を駿河の今川氏のもとへ追放して当主となる。以後、領国の甲斐をかためると信濃への侵攻を開始し、諏訪・小笠原・村上氏らをやぶって勢力をひろげ、53年には北信濃へと進出、越後の上杉謙信 と対立した。
翌年、相模(さがみ)の北条氏康 、駿河の今川義元 と、三国同盟をむすんで背後をかため、謙信と何度か川中島で激突した(川中島の戦 )。1561年(永禄4)の合戦が最大の激戦で、以後、優位にたった信玄は信濃全域をほぼ掌握し、さらに飛騨や西上野(こうずけ)へと侵攻した。今川義元の没後は、義元の娘を妻としていた長男の義信を反逆罪で刑死させ、今川氏との同盟関係をたって、のち駿河も領有した。次に北条氏とも敵対して、69年には本拠地の小田原城を包囲、71年(元亀2)氏康の遺言で和議が成立するまではげしい戦いをくりひろげた。
上杉謙信
1530~78 戦国期の武将。はじめ長尾景虎(かげとら)のち上杉政虎、輝虎とあらため、出家して謙信と号した。越後守護代で春日山(かすがやま。新潟県上越市 )の城主、長尾為景(ためかげ)の子。1548年(天文17)兄の晴景とあらそって家をつぎ、春日山城主となる。北条氏康 におわれた関東管領 上杉憲政や、武田信玄 におわれた北信濃の村上氏、高梨氏らを保護し、2度上洛(じょうらく)して将軍から関東出兵と信濃出兵の名分をえる。以後、信濃の川中島(長野市)へは53年(天文22)以来5回(川中島の戦 )、関東へは60年(永禄3)以来十数回出兵した。
1560年の関東出陣では北条氏康をおいつめ翌年拠城の小田原城をかこんだが、結局おとせなかった。後日、鎌倉鶴岡八幡宮 で上杉憲政から上杉の姓と関東管領職をゆずられて名を上杉政虎とあらためた。この年、越後へもどると、ただちに信濃へ出兵して有名な第4次川中島の戦で武田信玄と激戦した。しかし、老練な信玄にふりまわされたかたちでおわり、武田氏の信濃進出をゆるす結果となった。
その後、1572年(元亀3)には織田信長 と同盟をむすんで越中を平定、ついで加賀、能登に進攻した。77年(天正5)には織田軍をやぶって能登を制圧、翌年関東出陣を前に領国全域に大動員をかけた直後、急病死した。脳溢血(のういっけつ)という。
今川義元
1519~60 戦国期の武将。駿河を本拠とした戦国大名 今川氏親(うじちか)の3男。1536年(天文5)兄氏輝(うじてる)の死後、異母兄とあらそってたおし、家督を相続。駿河を中心に遠江(とおとうみ)・三河をおさめ、東海一の大勢力に成長した。はじめ、東で相模(さがみ)の北条氏と、西で尾張の織田氏と対立していたが、54年武田晴信(信玄) ・北条氏康 と三国同盟をむすんで北条氏との関係を安定させ、西への勢力拡大をすすめた。1560年(永禄3)駿河・遠江・三河3国の大軍をひきいて尾張にせめいり、桶狭間(おけはざま)の陣中にいたところを、織田信長に奇襲されて敗死した(→ 桶狭間の戦 )。
今川氏の守護から戦国大名への転身は上杉・武田両氏よりもはやく、父の氏親の晩年には体制がほぼととのっていた。義元は父の政策をうけつぎ領国内にしばしば検地 をおこなって領国支配体制確立の要(かなめ)とし、家臣団 を強化、また産業をおこして商工業を統制した。父の分国法 「仮名目録」に追加して「仮名目録追加」21条を制定するなど、戦国大名今川氏の全盛期をきずいた。
織田信長
1534~82 戦国期~安土桃山時代の武将。尾張の戦国大名 、のち天下人。幼名は吉法師。尾張の那古野城(名古屋市)城主、織田信秀の子として生まれる。その家系は、尾張守護代の清洲(きよす)織田氏の三奉行のひとつであった。
1546年(天文15)に元服して信長と名のり、48年、美濃の斎藤道三 と父信秀の同盟のあかしとして道三の娘と結婚する。51年に父の病死で家督をつぎ、55年(弘治元)、清洲城(愛知県清須市)をうばって尾張半国を統一したが、56年に道三が子の義竜(よしたつ)とたたかって敗死したため、美濃との同盟はやぶれた。
1559年(永禄2)、もうひとつの尾張守護代家の岩倉織田氏をほろぼして、ほぼ尾張一国を統一した。60年に駿河(するが)の今川義元 を桶狭間の戦 で敗死させ、62年には今川氏の支配から独立した三河の徳川家康 と同盟、この年または翌年、清洲から小牧(愛知県小牧市)へと本拠をうつし、以後、美濃に侵攻する。
この間の1559年には、京都にのぼって室町幕府13代将軍の足利義輝に謁見し、64年には密使を通じて正親町天皇(おおぎまちてんのう)の皇室領回復の要請をうけている。
1567年、ついに美濃稲葉山城(岐阜市)をうばって斎藤氏をほろぼし、ただちに尾張小牧から稲葉山城に本拠をうつすと、城下の井ノ口を岐阜と改称した。このころから「天下布武(ふぶ)」という印章をつかいはじめており、この印文と岐阜という地名の採用は、信長の天下統一の意志をあらわしたものとされている。
1568年、越前一乗谷の朝倉氏のもとにいた足利義昭 を美濃にまねくと、義昭を奉じて京都にのぼり、義昭を15代将軍につかせて室町幕府を再興した。しかし、信長は副将軍に就任してほしいという義昭の要請をことわり、朝廷と幕府の権威を微妙にあやつりながら、実質的な権力をにぎったため、まもなく義昭との関係は悪化した。
上洛にあたっては、わずか数カ月の間にこれをはばむ六角氏や三好三人衆などを駆逐して、近江(おうみ)と畿内を制圧し、上洛と前後して伊勢も制圧すると、2男の信雄(のぶかつ。のぶおともいう)を伊勢の北畠氏に、3男の信孝を神戸氏(かんべし)にそれぞれ養子としていれた。
信長の勢力拡大を不満とする義昭は、武田信玄 、朝倉義景 、浅井長政 、毛利氏、三好一党などの諸大名や、比叡山(ひえいざん)延暦寺 、石山本願寺 などの宗教勢力と手をむすび、反信長派による信長包囲網づくりをすすめる。
信長はこれに対抗して徳川家康に援軍をたのみ、1570年(元亀元)、浅井、朝倉両軍を近江姉川の戦 でやぶると、71年には浅井、朝倉両氏に味方した延暦寺を焼き討ちした。この焼き討ちでは、叡山にいた僧俗男女3000~4000人を皆殺しにしたという。72年、甲斐(かい)の武田信玄が上洛の軍をおこして家康の領国へ侵攻、遠江(とおとうみ)三方原(みかたがはら)の戦で織田・徳川連合軍は完敗したが、まもなく信玄が病死したため武田軍はひきかえし、信長と家康はことなきをえた。73年(天正元)には近江の小谷城(おだにじょう:滋賀県湖北町)をおとして浅井氏をほろぼし、その足で越前一乗谷まですすんで朝倉氏もほろぼすと、畿内にもどり、槙島城(まきしまじょう:京都府宇治市)に兵をあげた義昭を追放して、事実上室町幕府をほろぼした。→ 一乗谷朝倉氏遺跡
1575年、三河長篠の戦 で、信長は武田信玄の子勝頼 のひきいる武田軍を鉄砲隊をつかってやぶり、東からの最大の脅威だった武田氏を封じこめることに成功した。翌76年には天下統一の拠点とするため安土城 の造築をはじめ、織田家の家督と岐阜城を長男の信忠にゆずると、安土へとうつる。77年以降は、羽柴(豊臣)秀吉 を中国攻めにむかわせ、毛利氏領国への侵入を開始した。
1582年(天正10)は、信長にとって大きな飛躍の年だった。まず、同年3月、武田勝頼配下の木曽義昌や穴山梅雪(あなやまばいせつ)が信長側にねがえったのをチャンスとして、信長と徳川家康は一気に武田領国へ侵攻、甲斐天目山(てんもくざん)の田野(たの:山梨県甲州市)に勝頼をほろぼした。これによって、信長は領土を信濃、甲斐、駿河から関東の上野(こうずけ)西部にまで広げ、ほぼ本州の中央部を征服した。
武田氏をほろぼした帰り道、信長は家康の領国をとおり、家康の接待をうけながらゆうゆうと凱旋(がいせん)した。5月にはその返礼として家康と穴山梅雪をまねき、安土城や堺などの見物、安土城での能の上演などで2人を接待した。
また、5月には3男の神戸信孝に四国遠征を命令、その四国遠征軍は、5月末~6月初めに大阪湾岸の諸港に集結した。その一方、それまで羽柴秀吉にまかせていた備中での毛利氏との戦いに決着をつけるため、5月、明智光秀 に中国出陣を命じ、6月みずから出陣する途中、京都の本能寺に宿泊した。
武田氏の滅亡につづく、四国遠征と対毛利戦のゆくえは、この年、信長の領土が一気に拡大しただろうことを予想させる。しかし、6月2日未明、信長は家臣の明智光秀に宿所本能寺を奇襲され、覇業半ばで自殺した。同時に長男の信忠も二条御所で敗死し、織田政権はほろんだ。→ 本能寺の変
信長は中世から近世 への変革期に、全国的な群雄割拠の中から、いちはやく京都にのぼって統一政権の樹立をこころざし、商品経済の発達をうながすための楽市・楽座 の設定や関所 の廃止、集権的な封建体制をきずくための検地 、刀狩 、家臣団の城下集住、政教分離など、新しい政策を次々と実行した。ただし、検地は指出検地(さしだしけんち)どまりであり、刀狩も一部地域でおこなわれたにすぎず、その政策の多くは豊臣政権にうけつがれ、秀吉によって完成された。
家臣団の構成は、北国方面に柴田勝家 、丹波・丹後方面に明智光秀、関東方面に滝川一益(かずます)、中国方面に羽柴秀吉、対本願寺戦に佐久間信盛を総司令官として派遣、そのもとに部将たちを与力として分属させ、各方面の支配あるいは征服をおこなわせた。
朝廷対策では、一時、正二位右大臣までのぼったが、1578年にすべての官職を辞退した。また、誠仁親王(さねひとしんのう)を猶子(ゆうし:養育の義務のない養子)として二条御所にすまわせたが、正親町天皇の譲位は懸案になったまま実現しなかった。朝廷では信長の死の直前、太政大臣 ・関白 ・征夷大将軍 のいずれかに任命することを申し出たが、信長は返答を保留したまま没した。この朝廷の申し出は、信長が強要したものだとする説もあり、信長が朝廷あるいは天皇をどのように位置づけようとしたかについては、学界でもさまざまな意見にわかれている。
若いころの信長は、服装や行動がめちゃめちゃで、「大ウツケ(頭がからっぽの意)」と悪口をいわれたという。その一方で、鉄砲や長槍(ながやり)の使い方を工夫し、戦闘訓練もまじめにやっていたらしい。時代の常識にかたまった凡人には、信長の天賦の才能が理解できなかったというところだろうか。20歳のころの斎藤道三との会見で、道三だけはその才能を理解し、圧倒されたという逸話がのこる。
信長は斬新で合理的な思考の持ち主で、神仏などの存在はいっさいみとめず、延暦寺や本願寺など、抵抗する宗教勢力に対しては徹底的に弾圧した。キリスト教については、ルイス・フロイス の布教をゆるし、教会建設に便宜をあたえるなど、保護する姿勢をみせているが、これはヨーロッパの政治、経済、文化、技術、思想などの知識をえるのがおもな目的であったとみるべきだろう。
明智光秀
1528?~82 安土桃山時代の武将。明智氏は美濃守護土岐(とき)氏の分家のひとつで、斎藤道三 にほろぼされたとつたえられる。諸国を放浪していた光秀は、はじめ越前の朝倉義景 につかえ、のち将軍足利義昭 、さらに織田信長 の家臣になったという。光秀の存在が確実になるのは1568年(永禄11)の信長の上洛のころからで、信長と義昭の両者につかえ、その間をとりもつかたちで京都の政治などにかかわった。義昭の追放後は信長の有力な部将として戦果をあげ、近江(おうみ)坂本城、丹波亀山城などをあたえられて丹波攻めを担当した。平定後京都の要衝をおさえて美濃・近江・丹波の諸侍で家臣団を形成した。