【お知らせ】
横須賀古地図くらぶです!
横須賀の歴史ミニ講座を
開催します。
今回は横須賀通史です。
縄文時代から昭和までの
横須賀をやさしくたどります。
歴史が苦手な方こそ
楽しめる内容になっています。
地元をもっと好きになるきっかけに
北久里浜の
カフェPARKさんで開催します
参加費無料で
ワンドリンク制です
ご参加お待ちしています

公式LINEからも申し込みできます。公式LINE
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今回は横須賀通史です。
縄文時代から昭和までの
横須賀をやさしくたどります。
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本日はお天気に恵まれた中
逸見の散策をしました
逸見の漢字は読むのが難しいのですがもともと
一辺二辺の辺の字を使って
いたところ旧字体が
複雑だったので書き写しの時に間違えたようです。
逸見は横須賀の古代から
現代に至るすべての歴史と
関わっています。
古代と中世は中心地の公郷と平作につながっており
近世の江戸時代に浦賀が
発達すると東のうらがみちを通して中継地になります。
近代は近くに海軍基地が
建設されました。
今回の散策は京浜急行の
逸見駅からスタートしました。
この駅も1930年にできた
古い駅で同じ頃今の駅前通りも整備されました。
東逸見と西逸見の境は
だいたいこの通りで
分けられています。
まずは一番左の旧道を
歩きました。
市役所支所と郵便局がすでに大正時代の地図に同じあたりに載っています。
明治時代最初の地図では
この道と浄土寺へ向かう
四つ角の道しかありません。
この通りは東のうらがみちにつながっています。
また反対側に行けば
池上を経由して旧東海道にも行けるので
明治までは逸見の
メインストリートだったことがわかります。
今でも両側に戦前の建物がいくつも残っています。
昭和の終わりまで川に沿っていて橋もかけられていましたが現在は暗渠になっています。
昭和3年に整備された
国道16号線もこのような通りにつながっています。
昭和に入ると16号線と
駅前通りが中心になります。
逸見生まれの児童文学者さとうさとるの「わんぱく天国」は昭和10年頃が舞台の話で
汀橋のバス停は今でも
ほぼ同じ位置にあります。
16号線を西逸見へ歩いて
山側に入ると創立150年の逸見小学校が静かなたたずまいを見せています。
校庭にはこれも樹齢130年に
なるくすの木の大木が4本植えられています。
そのすぐとなりには三浦按針の菩提寺である浄土寺があります。
この日はちょうどはなまつりで甘茶をご馳走になりましたまた普段はなかなか見られないこの寺のご本尊である
鎌倉時代の観音像も
公開されていました。
その後は西逸見地区を
山の方へ向かいます。
あたりには戦前の家がいくつも残っていて
まるでタイムスリップしたようです。
山側に向かっても
傾斜はなだらかなので
昔から住みやすかった事が
うかがえます。
途中に吉倉に通じる
人道トンネルが掘られていてその山に登ると
安針塚の塚山公園になります。
緑豊かなこの台地が
「わんぱく天国」の舞台で
さとうさとるは
人が乗れるグライダーを
飛ばした話を書きました。
今回は塚山公園ではなく
ホタルの里に向かいます。
しばらく台地を登ると
沢がせき止められた一角がありそこのカワニナの貝を食べてホタルの幼虫が育ちます。
まだシーズンではありませんでしたが夏にはホタルが飛び交います。
そしてこの沢の流れに
沿ってまた市街地の方へ
降りて行きます。
清流に沿ってフキがたくさん自生しており、さとうさとるがコロボックルの物語を
書いた理由がわかります。
フキの他にもクレソンなども生えていて
市街地なのに自然が豊かです。
途中に逸見浄水場へ上がる
急な坂があります。
海軍基地のために相模川支流の中津川から53キロの半原系統の水道道を引いた終点です。
大正10年に完成した見事な
アールデコ調の建築ですが
現在は使われておらず
普段は見学できません。
逸見は関東大震災の時に
大きな崖崩れに見舞われ、80名が犠牲となりました。
その慰霊のために大正13年に慰霊碑が建立されました。
現在でも商店街の真ん中で
100年以上の歴史を刻んでいます。
今回の散策で改めて
逸見という地域の奥深さを
感じました。
逸見は歴史と自然が
現代の街と共存しているところが面白いです。
横須賀線の駅や海上自衛隊の基地、国道16号線や本町中山線の自動車道路、
そして横須賀初のタワーであるウェルシティが2000年に建てられた一方で
そのウェルシティから山側を望めば古代につながる
旧東海道への山道、
豪族の逸見氏が構えた山城を抱く緑の台地が連なっています。
今回はその山側の方に分け
行って歴史と自然を堪能してきたのですが、
もうひとつ有利な点としてわりとせまい面積に
見所がぎっしりつまっているという事です。
例えば江戸時代に焦点を合わせれば、うらがみちと
三浦按針の浄土寺。
明治大正なら逸見小学校や、
逸見浄水場などいくつもテーマが浮かびます。
これだけ豊かな背景を持つ
逸見地区なのですから
もっと注目を集められるのではないかと思いました。
もし売り出すポイントがあるとしたら、やはり現代の日常生活と豊かな歴史や
自然との融合かもしれません。
普段住んでいるところの隣にに古代から近代までの
歴史があり、
さらにはホタルの飛び交う
清流があるという、
日常のすぐ隣に豊かさが有ることを広められたら、
横須賀の中でもっと親しまれるかもしれません
先週末、
浦賀へ歴史散策へ
行きました
気候温暖な浦賀は縄文の昔から人びとが住み着き
房総半島への重要な港でした。
そして江戸時代に入ると
それまでの平作地区に代わって三浦半島の中心地となります。
徳川家康がウィリアム・アダムスを使って
この地でスペイン領メキシコとの貿易を計画しています。
その後 房総などの漁場で獲れた鰯の加工品「干鰯」の
集積地として
まずは浦賀の東側が発展します。
このころ日本では
木綿栽培が盛んになり
その肥料として干鰯が重要な商品となっていました。
1720年に西側に浦賀奉行所が出来ると今度は西浦賀地区が発展します。
西叶神社の辺りを中心に
干鰯の回船問屋が軒を連ね
小高い岡に上ると瓦屋根が街中をびっしり埋め尽くしていました。
今でもこのころの様子は
浦賀の街に残っていて
通りを歩くと江戸時代が
想像できます。
東浦賀と西浦賀をつなぐ
渡し船も江戸時代には
すでに有りました。
東浦賀の渡し場付近には
徳田屋という旅館の跡が
当時の姿を留めています。
浦賀奉行所ができてから
東のうらがみちが整備されて江戸との行き来が盛んになります。
特に1853年のペリー来航以後は勝海舟や吉田松陰などの
著名人が次々と訪れるようになります。
幕末に横須賀地区に
小栗上野介やヴェルニーらによって近代的製鉄所が作られると三浦半島の中心地は
今度は横須賀地区に代わります。
浦賀にも1897年に浦賀ドックが建設され横須賀に劣らない勢いを見せます。
1930年には京浜急行の浦賀駅も作られます。
しかし横須賀を中心にした方が効率的な軍都を
作りやすいという軍部の意向によりそれまでの三浦郡浦賀町は横須賀市に併合されてその一部となりました
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横須賀古地図くらぶ
ミニ講座のお知らせです
【島崎藤村の家系は三浦一族の出身でした
小説「夜明け前」の中に主人公が偶然
その事実を知り
はるばる中山道、江戸、
東海道、うらがみちを通って横須賀まで旅をします
その道筋などもお話しします】
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