「こどもの主体性」を大切にしようという言葉をよく耳にします。
もちろん大切なことなのだと思うけれど、それの裏返しで「大人は受動的・従属的」という捉えられ方がなされたり、「こどもの主体性」→「自由」(そもそも自由ってなんだろう?)にすると「やりたい放題」に陥る→「ルールが必要!」というお決まりの議論が展開したりすることにモヤモヤしています。
そんなモヤモヤを抱きながらあれこれ考えていると、ふと思い起こされた場面がありました。それは以前引っ越しをした時の、不動産屋さんとのやり取りの場面です。
私は漠然とした物件像を思い描きながら、「朝ラッシュで電車が混むのはキツいから、アパートから職場までは下り方面になる場所に住みたい」「車がないから駅やスーパーの近くがいい」「バス・トイレは別がいい」「できれば築浅、角部屋がいい」「本が多いから収納スペースがあると良い」などの条件を不動産屋さんに伝えていきます。この時の私はきっと「主体的」なのだろうと思います。
では、一方の不動産屋さんはというと、「スーパーは○○より△△派」「南口より北口のほうがしっくりくる」などよくわからない独特のこだわりを持つ私に対して、持っている物件情報やその土地の資料、これまでの経験則から「だったら、この物件はどうですかね?」「それなら、こっちのほうが良いかも知れませんね」「駅近と築浅だと、どちらを重視されますか?」などと提案してくださいます。この姿は果たして「受動的」「従属的」なのでしょうか?そうではなく、不動産屋さんもまた「主体的」なのだろうと思います。
もう一つのブログで、こどもたちが生み出す遊びの〝動き〟と、レッジョ・エミリアの「ピアッツァ(広場)」についてまとめました。https://note.com/pegasus19/n/n077cb9e7b392 この内容とも繋がるのですが、私と不動産屋さんとのやり取りにおいて真ん中にあるものは「私が好みそうだと思われる物件」というテーマ。その土地に住んだこともなく、どんな物件情報があるのかも無知な私自身はもちろん、不動産屋さんにとっても手持ちの情報の中で私がどれを好むか(あるいは好まないか)がわからないという意味で、双方は答えがわからない状態です。
けれど、こういった未知のものが真ん中にあることで、それぞれが主体的、もっと言うと相手や条件、未知のテーマ自体によって導かれながら働きかけるという中動的な状態になることができるのだろうと考えます。そして、無事に双方の対話の中で1つの答えが見つかった時、(私の一方的な思い込み?なのかも知れませんが)不動産屋さんとの間にそれまでとは違った関係性が生まれる気持ちになるのです。
「広辞苑無料検索」(https://sakura-paris.org/dict/%E5%BA%83%E8%BE%9E%E8%8B%91/content/9457_902)で「主体的」と調べると、「①ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのでなく、自己の純粋な立場において行うさま。」と出てきます。
こどもと関わる場にいても「自分で考えなさい」「自分で決めなさい」「他の子がやるからといって、真似しちゃダメだよ」などといった言葉を耳にすることが多く、まだまだ暗黙のうちに「人間は確固たる自己を持っている」「自立した個人であることが望ましい」という価値観が根深いことを痛感させられます。
こどもと関わる場にいても「自分で考えなさい」「自分で決めなさい」「他の子がやるからといって、真似しちゃダメだよ」などといった言葉を耳にすることが多く、まだまだ暗黙のうちに「人間は確固たる自己を持っている」「自立した個人であることが望ましい」という価値観が根深いことを痛感させられます。
未知のものを真ん中にし、共構築・共創造の中で〝動き〟が生まれていくー。そんな発達観や教育観が大切にされていけば、きっと共に主体的(というより中動的)で、「こどもー大人」という二項対立的な考え方を越えた実践哲学・実践理解が生まれていくのではないでしょうか。