今、自分が受けている結果の全ては、過去の自分の種まきが生み出したものと知れば、善果には感謝となり、悪果には反省、向上の得がたい勝縁となるでしょう。


真実の仏法を知らされ、因果の道理を信じている人は、悪い運命にあえば、自己の行為を反省し、善い運命に恵まれれば、より努力精進して無限の向上に努めずにおれなくなります。


成功も栄達も皆、その人の努力精進の結果です。


厳正な因果の理法を知らず、不平や愚痴を並べていると善い結果はきませんね。


余計に苦しまなければなりません。


現在の運命はかつての自己が創造し、未来は今からの自己が造ると分かれば、乱暴な自暴自棄も無気力なアキラメも吹き飛んで、過去を反省し、よりよき明日に全力を挙げる、強くたくましい人生が開けます。


因果の道理をよく知り、人生の目的達成に向って進ませて頂きましょう。

「因」とは私の行為です。


仏教では、行いとは心と口と体から評価します。

これを三業といいます。


身業・口業・意業の3つです。


体でやる行いが身業。

口で話す行いを口業、

心でいろいろのことを思う行いを意業といいます。


法律や道徳では、体と口の行いを問題にしますが、仏法では心も行いであると言われます。


しかも心を最も重視します。


心で思ったことを、体で行い、口で言う。

あらゆる行為のもとだからですね。


たとえて言うと心は火の元であり、体や口は火の粉です。

火事が起きた時に、消防士はホースを火の元に向けます。


火を消す時も、火の元に主力がおかれるように仏教では心の行いが最も重くみられます。



法律などでは、心の種まきを取り締まることはできません。

「あっ、お前今そんな恐ろしいことを思ったのか、逮捕だ」とはなりませんね。


もし、心まで取り締まったら、警察官や裁判官も刑務所に入らなければなりません。


「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」と教えられる通りです。

次に、「自因自果」は、自分の蒔いた種は、自分が刈り取らなければならないということです。


他人のまいた種の結果が私に表れる「他因自果」もなければ、私の蒔いた種の結果が他の人にいく「自因他果」ということも絶対にないと教えられています。


自分が勉強すれば自分の成績があがります。


友達の成績が上がると思ったら、だれも一生懸命勉強する人はいないでしょう。


お酒を飲んで酔っぱらって怪我をするのは飲んだ本人であって、隣にいる人がふらふらになるということは絶対にありません。


ここで「因」と言われているのは「行為」のことであり、「結果」とは運命のことです。


幸福という善い運命は、善い行いが生み出したものであり、不幸や災難という悪い運命は、悪い行いが引き起こしたものなのです。


善いのも悪いのも、自分の運命のすべては、自分が蒔いた種が生み出したものですよ、と仏教では教えられています。


神というものがいて、私の運命をつくったのでもなければ、先祖のたたりで不幸になるのでもない。


キツネやタヌキがついているからでもなく、印鑑や手相の善し悪しで運命が決まるのでもありません。


私の運命のすべては私のやった行為が生み出したものであり、
それは万に一つも例外はないのだよと教えられています。