第十九 刀剣の稲妻(1/2)
その時鹿蔵は、ただちに木幡の里に帰って、山三郎にその日の仔細を詳しく話し、葛城の真心を告げ「あまりにも愛おしく思っているので、せめて一度はあの地に御越しになって、ご対面してください」と進めると、山三郎は言った「五条坂に葛城という有名な遊女がいるとは、以前何となく聞いていたが、その者が高間粂衛門の娘の岩橋であるとは、夢にも思わなかった、あの者は親どうしが納得して、私と許婚の女とは言っても、今は花街(遊女屋が集まっている地域)に落ちて、流れる身となった女に対面するのは、武士の名を汚すのと同じである。彼女の志は可哀そうであるが、対面はできない」と言えば、鹿蔵は言った「出過ぎたことですが、それは違います。葛城殿の話を聞けば、この頃雲に稲妻衣服を着た侍五人、代わる代わるその地に行き来すること、そのうち一人は必ず伴左衛門で、他は藻屑の三平達四人者に疑いなし。これは以前より御推量の通り、殿を誘い出して返り討ちをする謀略に決まっています。せんだって御父君が夢の中で告げたのは、この事でしょう。ことさら葛城殿の真心を疑う事がないのであれば、一度あの地に行って葛城殿を頼って、彼らの謀略のうらをかいて、内側と外側から合図を決めて五人を一度に討ってしまう良計が望ましいでしょう。君父の讐(あだ)は俱(とも)に天を戴(いただ)かず(君父のかたきとともにこの世に生きていたくない。生命をかけても報復しないではいられないことにいう。不俱戴天)と言われているので、目の前に仇を見て機会を失うことは、決してあってはいけません。復讐のために花街に行くことが、どうして恥なのでしょうか」と忠告すると、山三郎は本当にその通りだと思い、その夜、鹿蔵を連れてひそかに五条坂に来て、神林の所を訪れて葛城と対面すると、葛城の喜びは言うまでもない。 山三郎は少しも浮ついた言葉はなく、夜通しただ復讐の計略を話し合って、朝早く別れて帰った。
これより後は葛城のもとから、金銀衣服を送って山三郎に貢ぎ、心の誠実さを運んだので、山三郎は類い稀な女性だと感嘆にたえなかった。
葛城は伴左衛門の顔を見知らず、誰れが誰だか分からないので、山三郎は毎晩鹿蔵をその地に送って、五人の者を打ち取るよい機会を待っていた。
鹿蔵は深い笠で顔を隠し袈裟衣をきて物乞いの道心坊(乞食坊主)の恰好で、忍んで行ったのであった。
そうとはいっても五人の者は代わる代わる行き来して、五人一緒に来ることはなく、当然その後をついて行ったが、いつも帰路を変えて帰るので住所ははっきりしないで、ただ心が焦るだけである。
それはさておきここにまた、不破伴左衛門重勝は、浪々の身であっても極秘に父の道犬が扶助していたので何の不足もなく、笹野蟹蔵、藻屑の三平、土子泥助、犬上雁八達四人の者をかくまっておいて、父が大望を遂げる好機を待ち、紀伊の国藤白山の奥に大きな住居を造り、野武士や浪人どもを多く召し抱えて、いざとい時は、父と共に濱名入道に味方する準備にひたすらである。
そうであっても名古屋山三郎がこの世にいるうちは寝覚め悪かった。もとより彼には草履打ちの恨みがあればこそ、彼の親をも間違えて討った。どのようにしても彼を返り討ちにしようと思っているけれど、その行方は全く知れないので、しかたなく過ごしていたが、この頃京都に住んでいる事を偶然聞き出して、あの四人の者を従えて突然に上京して、伏見の里に仮住まいして、人が見知っている同じ様な装束をして、五条坂に行き来して、山三郎を誘い出し返り討ちにしたいものだ、と計略したが、先日犬上雁八があの地で三本傘の紋を付けた侍に出会い、喧嘩を口実に試してみると、まさしく彼の手下の鹿蔵と見たので、山三郎は当国のなかに居住して、思った通り我等の計略に落ちて、我々を付け狙うのに疑いない。最後には誘い出してから返り討ちにしようと相談して、いよいよ廓に入り込んだが、彼らほ元々好色な奴らなので、伴左衛門は茨木の所の遠山という遊女と親しくなり、その他の者達もそれぞれになじみがいて、後で山三郎を討つ計略は脇に置いて、ひたすら遊興にのみ時間を費やした。実にこれは愚かなおこないである。
さて山三郎はひたすら彼らを討つ良い機会を待っていたが、ある日鹿蔵があの地よりあわただしく帰って来て、葛城の手紙を差し出すと、山三郎はいそいでこれを読んで、「今夜伴左衛門達五人の者が一同茨木の所に来ている事を聞き出しました。朝は未明に帰ると事を聞いたので、堤で帰りを待ち受けて、討ち取ってください、かならずこの時をやり過ごさないように」と事を短く書いていた。
山三郎はこれを読み終わり、天地を拝んで躍り上がって喜んだが、鹿蔵も闘志を燃やして「なにとぞ主君仇なので、助太刀をお許しください」と願うと「もっともな望みであるが、敵が大勢なのに怖気づいて助太刀を使ったなどと、世の中の人の言われるのも悔しいので、お前を連れてはいけない」と言うと、鹿蔵は涙を流し「そうであればせめてその所までお供を許して下さい。息継ぎの水でも差し上げたいです」と言えば「それは自分の思いどおりにすればよいと言うと、鹿蔵は喜んで、食事を調理して進めるなどして、あれこれと支度して時刻がくるのを待った。
山三郎はわざと廓に通う遊び人の様な恰好で、父の形見の左文字の刀を持って、その夜の二更(午後十時前後)の頃より五条坂の長堤に行って、朧月夜であるのを幸いに、鹿蔵と共に麦畑の中に身を隠して、時がくるのを待った。
この時はこれはいつの時代か、寛正五年(1464年)三月下旬とか。
ちょうど春雨の晴れ間で道は悪いが、いつも往来の多い堤なので、しばらくは人も絶えず、送り迎えの提灯が星の様に連なって、駕籠(かご)を走らせる掛け声は帰って行く雁の音かと間違える。
さて夜がふけるにしたがって、人の行き来も次第次第に絶えて、辻行灯(つじあんどう・辻番所の前に立ててあった灯籠とうろう形の行灯)の灯もかすかになって、「鮓(すし)召し上がれ按摩(あんま)はいかがですか」と呼ぶ声もすでに絶えて、田の蛙の声のみ高く聞こえて、寺々の鐘が五更(およそ午前四時)の時を告げわたり、月は山の端に落ちかかってさあ時刻になったと、山三郎は目釘(刀身が柄⦅つか⦆から抜けないように、柄と茎⦅なかご⦆にあけた穴に通す釘)を湿す(唾などで目釘をぬらして固定させ、刀を抜く用意をする)鍔(つば)元をくつろげ(鞘からすぐ抜刀でるようにする、鯉口を切るとも言う)まくり手をして待っていると、ほどなくあの雲に稲妻の衣服を着た侍一人、編み笠の下に覆面をして、板金剛を踏み鳴らしながら歩いてきた。
待ち受けた山三郎は、堤の上に飛び登って「珍しいな、不破伴左衛門、こう言うのは名古屋山三郎である。父の仇覚悟しろ」と叫びながら氷のような刀を抜き放すと、その侍は声高くあざ笑って編み笠を脱ぎ捨て「こちらの方から捜し求めていた山三郎、ここで会ったのは天の与え、返り討ちにするぞ観念しろ」と言って抜き合わせて、二太刀三太刀戦ったが、山三郎の鋭い太刀を受け損ねて、左袈裟(左方から斜め)に斬り下げられて、地上にバッタリと倒れた、山三郎は鹿蔵を振り返って「その奴のつらを良く見ろ」と言うと、鹿蔵は近寄って髻(もとどり)を掴んで引き起こして、月明かりに照らして見て「土子泥介です」と言う。
山三郎がうなづく間もなく、また同じ様な身なりをした侍が一人のさばりかえって歩いてきた。
山三郎は向かいに立ちふさがって「お前は不破伴左衛門であろう。これは山三郎だ父の仇を報いるのだ」と言いながら斬りつければ、この侍も笠を脱ぎ捨てて刀を抜き、受けたり流したりして、七八回打ち合わせて戦ったが、泥にすべってよろめいた処を、山三郎は飛び掛かって胴斬りにして、バッサリと勢いよく斬り離し、あごを持って命じると、鹿蔵は忙しく走り寄り、月の光で顔を見て「この者は犬上雁八です」と言う。
程なく同じ恰好の侍が一人進んできた。山三郎はすぐ近くに立って向かい「どうだ伴左衛門これは山三郎である。父を討たれた恨みの刃、思い知れ」と言いながら斬りつけると、編み笠をかなぐり捨てて、刀を抜いて斬りあい、丁々(ちょうちょう・刀が打ち合う音)と戦ったが、運が尽きたのか堤の端に足を踏み外して、うつ伏せに倒れたところを、山三郎は一声叫んで斬りつけると、たちまち首が堤の下に、転がり落ちた。
鹿蔵は続いて飛び降りて、その首を取り上げて見て「この首は片耳なので、藻屑の三平に疑いないです」と言う。
山三郎は「その者もまた伴左衛門ではないのか」と残念そうに言いながら、刀の血潮をぬぐって、一息つくひまもなく、また来かかった侍も同じ様な身なりである。
身長や恰好が今度はまさしく伴左衛門と思いながら、前のように名乗りかけると、その侍「心得た」と言いながら、刀の柄に手をかけるところを、山三郎は勢いよく飛びかかって腰車(腰を横から水平に切ること)斬ったが、すぐに倒れもせず、二三十歩歩いていった。
鹿蔵はあの者は逃げ去さろうとしていると、後を追ってゆくと、その者は前に斬られた者の死骸につまづき、二つになって倒れた。
山三郎の刀は父の形見の左文字の名作、斬った人は剣法手練の早業、こんなことがあるのも当然と鹿蔵は心に感じたが、山三郎は心が急いて「伴左衛門かどうだどうだ」と言えば、鹿蔵は屍を改めて見て「この者は笹野蟹蔵です」と言えば、山三郎は言った「その者まさしく伴左衛門と思ったのに、それもまた彼ではなかったのか。四人の者達は伴左衛門を助けて、父を討った仇であると言っても、本人を討たないでいるうちは安心できない。続いて来るべきはずなのに」と怪しみながら、ややしばらく待ったが、人影も見えないので、たいへん胸騒ぎがして、「この場所は一方からの入り口なので、他に帰る道はないのに、これは納得できない事ではないか。私は出口まで行って見るので、お前はここにいて気を付けろ」と言い捨てて、出口のほうに走って行った。
その時むこうの方から、一つの駕籠を担いで走って来たが、駕籠かき達は山三郎の刀の光がきらめくのを見て仰天して、駕籠を地上に捨てて、飛ぶように逃げ去った。
山三郎は駕籠の中を疑わしく思いながら、刀の切先で垂れを上げて見ると、雲に稲妻の衣服を着た侍が、編み笠を被ったままで駕籠の中にいたので、心は喜んで「どうだ伴左衛門、私は山三郎である。お前を討って亡き父の積年の恨みを晴らそうと、これまで心を尽くしてきたかいがあって、今日ただいま出会った事は盲亀の浮木(会うことが非常に難しいこと)であり、優曇華(うどんげ)の花咲く時(*きわめてまれなことのたとえ)を得たのと違わない。さっさと出てきて勝負を決めろ」と呼ぶと、伴左衛門は一言も答えず、何を狼狽えたのか刀も抜かず、駕籠の中からよろめいて出て、山三郎の胸に取り付くと、山三郎は刀を上げて腕を切り離すと、手首は胸に残り、「あっ!」と一声叫んで倒れるところを、首を斬り落として、急いで首を取り上げた時、廓の方で人の声が騒がしく聞こえたので、もしも首を奪われてはいけないと、手早く編み笠に包んで持って行く時間もなく、廓の者達が提灯を灯して、手に手に棒を持って、大勢で周りを取り囲んで「狼藉者を打倒して、早く縄を掛けろ」と集まった。
山三郎は声高く「これは狼藉者(暴漢)ではない、大和の国佐々木判官の家臣、名古屋山三郎という者、父の仇を討ったのだ。かならず怪しむものではない」と言っても、廓のもの達は「そう言うのは、この場を逃れるための、嘘であろう」と言って聞き入れず、すでに大勢で棒を振り回して、戦おうとした処に、鹿蔵が大勢を押し分けて山三郎の前に近づいて「あなたは大切な御身なので、彼らにかまわず、はやく帰って下さい。あとは私が良い様に処理します」と大勢に向かって「お前達が疑わしいと思うのも道理であるので、自分が人質となってここに留まる。この御方を道を開いて通して下さい」と言うと、廓の者達はようやく納得して囲みを開くと、山三郎は夜の明けないうちにと、急いで小幡に帰った。
☆(訳者の注)
* 優曇華の花咲く時とは、仏教経典では、3000年に一度花
が咲くといい、その時に金輪王が現世に出現するという。
金輪王は転輪聖王(世界を武力なしに統一するインドの
王の理想像)の四つ(金輪王、銀輪王、銅輪王、鉄輪王)
の中の最上位で金の輪宝を持ち、4つの大陸全てを支配す
るという。
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
名古屋山三郎、五条坂の堤、麦畠のうちにかくれて、伴左衛門等五人のかへりを待ち父の仇をむくはんとす。
五条坂の堤において名古屋山三郎復讐五人斬りの図。
五条坂の堤において名古屋山三郎復讐五人斬りの図を三頁を合わせた図
【国立国会図書館デジタルコレクション 明19・2 刊行版より】
(胴体を上下二つに斬られて歩いて倒れるのは劇画にありそう。
犬が首を咥えてる図も残酷というより滑稽味がある。
さて、伴左衛門の首を取った山三郎、しかし意外にも・・・ {訳者})