昔話稲妻表紙 巻之五上冊 (第十七 2/2) | 五郎のブログ

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桃源郷は山の彼方にあります

第十七 雪渓の非熊。(2/2)

 ちょうどこの時、納戸(なんど・物置の部屋)の戸をサッと開けて、立ち出た人の姿は、白糸縅(おどし)に銀(しろがね)の鋲綴(びょうとじ)をした腹巻の上に、萌黄錦(もえぎにしき)の陣羽織を来て(鎧装束)、青鈍(あおにび・緑みの暗い灰色を表す伝統色名のこと)の大口の袴(はかま)をはき、黄金作りの丸鞘の太刀腰にさげて、文曲武曲の二星を画いた、軍扇を持って出てきた姿は、志気堂々威風凛々として、本当に一人の英雄に見えた。
 桂之助は仰天して、誰かと見返すと、これはつまり誰でもない、梅津嘉門景春である。

 これは仰々しい身なりでと奇妙に思うと、嘉門は外に出て勝基を誘い入れて上座に座らせて、桂之助の手を取ってその次に座らせて、老母と共にはるかに下がって平伏して、恭(うやうや)しく礼をして、まづ勝基に言った「私のような愚かな身を、これはど御懇願される事は、ありがた過ぎてもったいないほどの幸せです。このごろ私が外出した後で、二度までも御駕(が)を枉(ま)げ(高貴な人がわざわざ立ち寄ること)られました事、母の話に聞きましたが、勝基公とは思いもよりませんでした。私は少しばかり実力以上の評判や名声を知られ、これまで諸国の諸侯より、召し抱えようと使者の行き来が多くあっても、その大将の気持ちは、高額の報酬を与えれば、奉公するだろうとのみ思っていて、軍師を使う礼儀を知らず、ただ権威で以って招くので、返答するのも煩わしく、当代諸侯は多くいても、主君として頼れる人はいないと、世の中を狭く見下していましたが、驚きいった公の御振る舞い、管領職の重い御身でありながら、ただ一人の従者も連れず、この雪中の寒気を耐えて、少しの権威の態度はなく、私一人御招きしようと、それほど御心を砕いて下さる事は、もったいななどと言うべきでないです。このうえは御招きに従って、麾下(きか・指揮下)に嘱(しょく・ゆだねる)するその証拠に、兵具を身に着けて御目見えいたしました」と敬い深く話した。
 勝基は大いに喜んで「私は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に及ばないと言っても、三度艸盧(そうろ・草廬三顧、三顧の礼、立場が上の人が礼を尽くして、すぐれた才能のある人を招くこと、劉備が諸葛亮を迎える際に三度訪ねたとする故事)を振り返って見ると、軍師を求める礼なので、どうして辛苦を嫌がるでしょうか。まずもってさっそくの受け入れ、喜びにたえません」と言えば、老母は謹んで言った「私は始めから勝基公と察していましたが、何度も御心を試して見て、気が短くて軽はずみな大将か、寛大で度量の大きい大将か、恐縮ですが御心の底をうかがったうえで、以前より主に使えさせないつもりでしたが、我が子ながらひとかたの大将であり、不足のない嘉門を、一生深山の埋もれ木、谷の巣守で朽ち果てさせるより、母が進めて御奉公させよう思いつき、度々心にもない無礼な事を申したのに、よくぞ我慢しました、心の中ではどれほど勿体なく、ただ感涙を押し隠しておりました」と言って、老いた涙は真実である。
 老婆はまた桂之助に向かって「さきほど途中でお目にかかった時から、ただの人ではないと思ったので、さきほど勝基公にお話ししているのを、物陰で聞けば、やはりあなたでおいででしたか。いままで一度も会ったことがないので、私を見知らないでしょうが、私もまたお顔を見知らないのですが、今は何を隠すことがあるのでしょう。あなたはもともと妾が産んだ子で、御実母は私の娘、嘉門にとっては姉であり、あなたを産んですぐに亡くなりました。先の奥方は賢い方ですので、少しも妬(ねた)むことがなく、奥方の実子として御披露になったのですが、平民の身で話すと、あなたは私にとっては孫ですが、腹はつまり借り物なので、私にとっては本当は主君であるのに、 軽々しく下僕と呼び、殴ったのは大きな罪ですが、これにはちょっとした訳がありますので、この包みをご覧になって下さい」と差し出した。
 桂之助は始めて実母である母の事を知って驚いて、いそいで包みを開いて見ると、短冊入れに一枚の短冊があった。
 取り上げて見ると「咲き匂う梅津の川の花盛りうつる鏡の影もくもらず」という歌が書いてあった。

 桂之助は眉毛のしわをよせて「この筆跡は見覚えがある」と言えば、老母は膝を進めて「それは為家卿が詠んだ歌で夫木集に入っている歌ですが、その昔祖父君が佐々木盛貞公の御在京時に、私の夫の梅津兵衛が北野の社人(神社に奉仕する神職)であった時に、御連歌のついでに、御筆で書いていただいた短冊です。その短冊の箱でもって打ったのは、つまり祖父君が御拳を下さって、あなたのこれまでの良くない行いを罰したのと同じです。ところであなたは怒る様子もなか、私の打擲(ちょうちゃく・なぐること)耐え忍んだ姿は、深く過去の過ちを悔い、武道の徒然草を得て、御怒りを詫びる種になさろうとする心の底が現れて気の毒で、胸が裂けるほどの悲しみを見せるまいと、涙をかくした老婆の心を御推量してください。子より孫が可愛いのは、世の中の人の心です。平民の御身であれば、祖母よ孫よと名乗りあい、娘の形見と愛しんで、片時もそばから離さないのに、主君と臣下と隔てると、言いたいことが数えきれないほど多くても、心で思うのみなのです」と悲嘆に袖を涙で濡らした。
 ややあって涙を拭って「どうですか嘉門こうなってはあの秘密の書物を、惜しまないで主君に差し上げなさい」と言うと、嘉門「こころえました」と、その書物を取り出して桂之助に与えた。
 老母は勝基に向かって「御覧のように桂之助殿は今では過去の志を改めなさったので、御館(足利義政)の御前にふさわしい取り扱いをひたすらお願いいたします」と言うと、桂之助は書物を勝基に渡して、ぬかずきうつむいて共にこれを願った。
 勝基は聞いて「以前より御館が熱心に望んでいたこの書物を差し上げるのは、国知殿の大きな功績なので、御前を良い様にとりなして、やがて帰国を取り持ちます」と言うと、三人同じく喜び限りなかった。
 さて嘉門は勝基に向かって、先年彗星が現れたとき、星の色蒼きに黄をおびたのを見て、牝鶏朝鳴きして婦女が権力を奪い、大乱の起こる兆候と考えたこと話すと、手を打ってその先見を感じて、義政公の北の台(北の方、正妻)の香樹院(こうじゅいん)殿は、若君を濱名入道に託して将軍にさせようとして、今出川殿は勝基を執権として、将軍であろうとして計略し、天下二つに分かれて、すでに大乱のおこる時期となる事を話すと、嘉門はまた先年に濱名の招き応じず、岩坂猪之八達数人を討ちとり、ただちにこの山に跡を隠した事を話して、互いにしばらく兵学を論じ、嘉門は当山に住んで、常に千早の城跡を見て、楠氏の奥妙(おうみょう・奥深くてすぐれていること)を感じる事など話したが、嘉門はかさねて言ったのは 「しかしながら管領職の御身でありながら、ただ一人で行ったり来たりして、もし濱名殿の者達が聞いて知って、多勢で以って取り囲んだらどうしますか。君子(賢い人)は危うき(危険)に近寄らないと言います。戦略がどうなっているのか御聞きしたい」と問い詰めると勝基は莞爾(かんじ・にっこり)と笑って「その時の備えはここにある」と言いながら懐を探って、合図の笛を取り出して吹くと、すぐに鎧腹巻に篭手脛あてで厳重に武装して、蓑笠を着た荒武者が達が、ここの木陰やあそこの岩陰から出てきて、数十人いそいで集まり、枚(ばい・声を立てず、息をこらすことのたとえ。夜襲の時に、兵士や馬が声を出さないように口にくわえさせた棒のこと)を噛ませた馬を引き出して「御帰還」と呼ぶと、嘉門は飛び上がって感嘆して「これは昔、韓信(かん しん・中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人)が使った、虚心での計略は伏兵ではなく、その理論は素早いことであると賛美していると時に、以前の手負いの熊が、怒り狂ってここに走ってきたのを、荒武者達が間合いを取り手槍を持ってまさに突き殺そうとするのを、勝基は見て「やあ待てしばらく」と声をかけて止めさせて、「それ六韜(りくとう・中国の代表的な兵法書)を考えると、文王が太公望を得た時に、占いでは熊ではないと言った(文王が狩りに出る前に占いで竜虎熊以外の大きな獲物を得ると言われて、狩りをしてる時に太公望と出会った話)。
私が今すでに当世の呂尚(ろしょう・太公望)を得て、どうして熊を欲しがるものか、無益の殺生を好んではいけない、さっさと放してやれ」と言うと、荒武者達は「はい」と応えて放した。
 勝基は桂之助に向かい「あなたは今しばらく世の中から隠れて、帰国の時期を待ったほうが良いだろう。老母はしばらくこの家にいて、再び迎えの乗り物で以って呼び寄せます。嘉門は今すぐに連れて行きます。幸い雪も降り止んだ」と言って、馬を引き寄せて乗ると嘉門は馬の左側に付いて、大勢の荒武者達は列を整えて前後を囲みながら、山の麓(ふもと)をめざしていそいで行った。
 老母は嘉門の勇ましい門出を見送ってなんとなく喜んでいたが、桂之助のみすぼらしそうな姿を見ると胸がふさがって、喜びと悲しみが入り混じって、しばらくは言葉が出なかったが、桂之助に向かって「ひそかにあなたにあわせる御方がいます。さあ、こちらえ」と奥深く離れた一部屋の中に誘い入れた。
 これは誰であるのか知らないので、後々の巻を讀んで知りなさい。

〇(原著者の解説)雍州府志(ようしゅうふし・山城国⦅現京都府南部⦆最初の総合的地誌)によれば、梅津清景の塔が梅津邑(うめづむら)にある。清景は藤原惟隆(これたか)十八世の孫である。
代々院の北面(院の御所の北面にあって、御所を警護する武士の詰め所)の武士であった。禅法(禅の修行)に帰依して、剃髪して是心(ぜしん)と称し云々。
考えてみると、一説には是球でどちらが正しいのかは分からない。この考えは巻之一第四回の処で記述するべきであったが、誤って漏らしたので、ここに記述した。
そこと照合して見ること。

 それはさておいて、ここにまた名古屋山三郎元春は、一つには桂之助、銀杏の前、月若達三人の行方を捜して、その安否を尋ねて、二つには父の仇の不破伴左衛門を捜して宿怨を晴らそうと、心は二つ身は一つ、多く心を砕きながら、配下の鹿蔵を連れて、あちらこちらを捜して歩き、しばらく旅の中に月日を送ったが、ある夜旅館のなかで不思議な夢を見た。
 その夢はどうであるかと言うと、頃はちょうど盂蘭盆(うらぼん)の時で、父の亡霊(なきたま)を祭ろうと、香華灯燭を買うために街に出ると、民家はひとしく霊棚(たまだな・先祖の霊を迎えて安置し、供え物を供える棚)を設けて、庭火(迎え火)を焚いて亡霊を迎え、念仏の声、念珠の音が街に満ちて、多くの亡者達が集まって来て、各々様々あちらこちらの家々に入る姿は、本当に哀れな様子であった。
 亡者の姿は様々で、額が波になっている老人もあれば、腰に弓を張った(腰が曲がった)老婆もある。

 若い男が幼い子の手を引いているのもある。

 若い女が乳房から離れない 赤子を懐に抱いているのもある。
 雨露に当たり朽ちて骨のみつながって、男とも女とも判断できないのが、影も特別薄く見えて、浪々蹌々(ろうろうそうそう・ふらふらよろよろ)と歩いてくるのは、何年たった亡者だろう。
 頬ひげをはやしてたいへん荒々しく男の、いまだに肉が落ちていないで、生々しく見えるのは昨日今日の亡者であろう。

 白髪を乱した老婆が、庭火の陰に腹ばいなっている幼い子供の顔を覗き見して、さめざめと泣くのは孫に心が残っているのか。

 鼻が平ったく口が歪んで、たいへん醜い男の亡者は、迎え火を焚く女をつくづくとふりかえって見て、恨めし気に立つのは、後ろの夫を迎えた恨みと思われる。
 この様に、様々の亡者が蜂のごとく群がり、蟻のごとく集まって来ても、家々の男女の目には少しも見えない様子なので、山三郎は自分も命が終わって、亡者の数に入ったかと、一度は驚き、浮蝣(蜉蝣⦅ふゆう⦆・かげろう)の一期(いちご・一生)朝露の命、泡沫無常老少不定(人間の寿命は、あわのようにはかなく、老若にかかわりなく、老人が先に死に、若者が後から死ぬとは限らないこと)の世のさだめ、皆このようだと、一度は嘆いて佇(たたず)んでいる所に、背後より「山三郎、山三郎」と呼ぶ声は、虫の鳴く音と違わなかった。

 山三郎は振り返ってこれを見ると、まさしく亡父三郎左衛門なので、驚きながら平伏して礼をして「この世を去った父上に、再び会う事の不思議さよ」と言うと、三郎左衛門は言った「お前は、私の仇を報おうと身を苦しめ、思いを尽くすのを、苔(こけ)の下で不憫に思い、ここまで姿を現したのだ。お前が伴左衛門を求めようと思うなら、他を求めるのは無益だ。早く京都に出かけて行って、お前が幼年だった時の許嫁である女を訪れて対面すれば、自然に伴左衛門に巡り合うだろう。この事を告げるためにやってきたのだ、親子は一世の縁なので、再び出会う事は困難である」と言い放って、去ろうとする袖にすがって「せめてもう少し待ってください」と言ったかと思うと夢から覚めて、旅館の寝床にただ一人、呆然としていたが、五更(午前四時頃)の鐘に驚いて、ようやく夢であることに気が付いて、悲嘆に(涙で濡れた)袖を絞った。
 こうして山三郎は父の告げに従って、急いで京都に出かけて、小幡の里に怪しげな家を買って、鹿蔵と一緒に住んだが、長い間旅の中にいて、少々の貯えも使い果たして、もともと生業のない身なので、持ち合わせた衣服もおおかた売りつくして、日々の出費にかえて、極めて貧しい暮らしであったが、鹿蔵は忠義の心が深い者なので、毎日煎じ物を売りに出て、身体がやせ細るのも嫌がらず、ようやく細々とした煙を立てていた。

〇(原著者の解説)考えてみると煎じ物売り、古い事には、文明(1469年~1487年)の頃の職人尽くしの中に見える。
また、能狂言にせんじ物売りと言うのがある。薬を煎じてかついで売る者である。

【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】 
なごや山三郎の夢盂蘭盆の時亡者のつどふを見る。



(次回より、山三郎、伴左衛門、葛城の話になります{訳者})