第十六 名画の奇特。
さてその時、南無右衛門は主君桂之助に願って娘の楓に目見えをさせ、又平夫婦と阿龍達とも引き合わせ、今日の出来事を詳しく話して聞かせると、楓は聞いて因果輪転の道理、善悪は結局報いがある事を理解して、ため息をした。
こうして、又平夫婦は食事を調理して、南無右衛門親子に与えて、一部屋の中に案内して休ませた。
南無右衛門親子は、長い間途絶えていた出会いだったので、様々な思いで話に思わず時間を過ごして、ようやく眠りにつくと、ややあって、楓が声をだして「ああ!ああ!」とうめき叫んだので、南無右衛門は驚いて眠りをさまして見ると、楓の腹に巻き付いていた小蛇が、懐より飛び出したと見えたのが、たちまち長さ一丈(約3m)ほどの大蛇に変わって、楓の身体を何重にも取り巻いた。
なんとかわいそうに、これはまあどうしたらよいのだと、あわて戸惑っていると、枕元に置いていた笈のなかから、多くの蟹がはい出て大蛇に取り付き、ハサミでもって肉をはさんで、血は泉のように流れ、少しの間で大蛇を殺し終わった。蟹はすぐに笈のなかに入いると見えたのは、つまり夢であった。
南無右衛門は夢からさめて、身体中汗を流して、楓を揺り動かすと、楓も眠りをさまして起き上がると、衣服を緩めて腹を見ると、これまで片時も離れなかった妖蛇は、何処かえ行ってしまったのかいなくなって痕もなかった。
南無右衛門はさては正夢であったのか思いながら、笈の中からあの巻物を取り出して、開いて見ると、絵の中の蟹のハサミすべてに鮮血が付いていた。
このころすでに四更(午前1時~3時ぐらい)ころであったが、又平も楓の声を聞きつけて起きてきた。
南無右衛門の夢の中のことを聞き、灯を掲げて、あの巻物をじっくりと見ると、手を打って言った「珍しいこと不思議なこと、巨勢の金岡(巻物を画いた絵師*1)は、清和、陽成、光孝、宇多、醍醐の五朝廷に使えて、官職の大納言に至り、かつて御府(宮廷の倉庫)に納めた金岡が画いた馬が、毎晩萩の戸(清涼殿の一室の名⦅障子に萩が描いてあったとか前庭に萩の植え込みがあったとか言われている⦆)の近辺に出て、萩の花を食べたと、古今著聞集に見える。また、仁和寺の御室に金岡が画いた馬があり、近田の近辺に出て、稲の根を食たという。
また河内の国金田村の牛頭天王の社前の金岡の筆の絵馬が抜けだしたという類いの説は、以前より聞き伝えていても、目の当たりこの様な霊験を見る不思議さよ。そもそも、この百蟹の図は金岡がことさらに精神を込めて、蟹の絵がひじょうに巧みであり、唐代の名画家、韓滉という者が、玄宗皇帝の命令で画いた、百蟹の図に習って画いたとは聞ていたが、見るのは今がはじめてです。神彩(すぐれた姿形)飛動(躍動)に生きているようで、霊験があるのはもっともです。自分はこれを見て画道の奥儀を極めました」と言いながら喜んで巻物をうやうやしく掲げて、再びまた言った「これについて思い出した話があります。昔、山城の国相良郡(元亨釈書⦅げんこうしゃくしょ・日本の歴史書⦆に久世郡{原著者の注})綺田村に一人の美女がいて、かつて仏道を信じた。ある時里人が多くの蟹を捉えて煮て食べようとした。その女は憐れんで、贅沢な食べ物と代えて蟹をすべて池に放した。また彼女の父がある時、野に出て蛇が蛙を呑むのを見て憐れみ、もし蛙をはなすなら、私の娘をお前に与えようと言う。蛇をこれを聞き入れたようで蛙を吐いて去った。その夜、衣冠(平安時代以降の貴族や官人の宮中での勤務服)の若者が来て、約束通り女を与えよと言って一室に入り、たちまち大蛇の変身して女の身体に絡みついた。その時、先日助けられた多くの蟹がここに集まって、大蛇の身体中をはさんで殺して女を救い、大蟹は去り小蟹はそこで死んだ*2。それでその場所に蟹と蛇の死骸を埋めて寺を建て普門山蟹満寺(ふもんざんかにまでら)と呼んだ。あるいはまた紙幡寺(かはたでら)とも呼ぶ事が、元亨釈書(巻之廿八)に見える。息女の事はよくこの事に似ている。思うにこれは陰徳陽報(人知れず善行を積めば、必ずよい報いを得るものだというたとえ)の道理を示し、これは名画の霊験によって孝女を救う、共にこれは仏の慈悲衆生済度(しゅじょうさいど・仏が衆生を迷いの中から救済して悟りを得させること)の手段です。あの壁に張り付けている私の拙い筆の絵を見てください、地水火風四つの弦が切れてたよりない琵琶法師も、忠孝が完全な竹杖で、煩悩の犬を打って、畜生道を免れて、天国に生きているようす、子息文弥殿の姿絵にも見えます。緑青(ろくしょう・ 銅の表面に生じる青緑色のさび、絵の具)の髪すじ胡粉(こふん・白色絵の具)の肌、ふだんのように塗笠(ぬりがさ・薄い板に紙を張り、漆塗りにした笠。多く女がかぶる)も、骨のみ残る手弱女(たおやめ・しなやかで優美な女性)が、肩にのせた一枝は、紫雲(しうん・紫色の雲。仏教で、念仏を行う者が死ぬとき、仏が乗って来迎するとされる雲)がたなびく藤の花、これは妹の藤波が成仏する姿です。長い間積み重ねた悪事の角を折って、鬼の心を翻して、墨の衣に鉦打つ(僧侶の姿)様子は、これはつまり長谷部雲六が邪念を消滅した姿ではないですか。喜怒哀楽に彩って、諸々の形を成就して、善となり悪となり、正となり邪となる、恩となり仇となるのも、三世因果( あらゆる存在が、過去・現在・未来の三世にわたって、因果の法則に支配されていること)の報いと思えば、たがいの恨みもつき弓(槻の木で作った丸木の弓)の、矢(弥)猛心(やたけごころ・たけだけしくはやる心)を和らげて、ただ彼らの菩提を弔うにまさるものはないです。自分は先ほどの夢に藤波が姿を現し、仇の三八郎殿親子のすばらしい忠孝を感じると、今は恨みも尽き果てて、安養浄土(あんにょうじょうど・極楽浄土の別名)に生まれましたと言って、身体から光明を放って去るのを見たので、成仏得脱は疑いない」と言ったその時、桂之助、小枝、阿龍は共に眠りを覚まして一間から出て来て、我々三人も同じ夢を見たと言って、皆一緒に喜んだ。
さて楓は父の前に手をついて「私はどうせなら姿を変えて藤波殿や文弥の菩提を弔いたいので、剃髪を認めて尼にさせて下さい」と言う。
南無左衛門は言った「いやいやお前は剃髪する必要はない。私が今から剃髪して、佐渡島坊と名乗り、私の異名をお前にゆずり、若殿を世に出しました後は、専修の念仏者となり、あの蟹満寺は近頃破損した事を聞いたので、これを修理して亡くなった人々の冥福の種とする。
お前が六字南無右衛門の名をつげば、仏門に入ったも同じである。お前はこれから文弥が師として頼りにした澤角検校に従って、近頃世の中で行われている浄瑠璃節を学び、因果の道理を歌にして、糺河原(ただすがわら・賀茂川と高野川が合流する河原、芝居興行の地としても知られた)でこれを歌って、漏れなく多くの人々に寄付を募って、私の希望に助力してくれ」と言い終わって、髻をぷっつりと切って、藤波に位牌に手向けると、皆々その真心を感じた。
六字南無右衛門という女太夫*3(女芸人)が、浄瑠璃芝居の始祖であると言い伝えられているのは、この楓のことである。
南無右衛門はまた桂之助に向かって頭を下げて「これから河内の国にお越しになって、若君と御対面してください、奥方の御行方は、さらにまた捜します。さあ夜が明けない間に、早く早く」とせきたてと、桂之助は忙しく身支度して、又平に向かって「私が時の運を得て世に出たなら、かならずこの報いはする」と言って別れを告げて、編み笠を深くかぶって出ていくと、南無右衛門は修行者の姿そのままで、楓を連れてともに後からついて行いった。
又平夫婦と阿龍も共に「無事でいて下さい」と言いながら、門口まで見送り、互いに涙を流して別れ、わずかに一町(約100m)ほど行くと、昨日雇った縣神子(あがたかみこ・地方の霊媒師⦅藤波を降霊した巫女⦆)が、野伏せり(地侍や農民の武装集団、野武士)の乞丐(こつがい・こじき、物乞いする人)達に話して連れて来て、道をふさいで「この頃管領濱名殿より厳しく聞かれたが、桂之助とやらは、何処に逃げて行くのか。私は昨日又平に家に雇われ、家の中の様子が不審に思われたので、今ここに来て調べてみると、結局疑わしい奴らであり、捕まえて賞金をもらうぞ、早く早く手を縛れ」と叫んだ。
南無右衛門は蹴散らして通りぬけようと、錫杖を持って伸ばした処に、思いがけず物陰から、猿二郎が棒を持って走って飛び出して来て、その辺の奴らを散々に蹴散らし、「ここから志賀の山越えをして御立ち退きしてください。人に知られていない抜け道を御共にいたします」と、結局四人一緒にいそいで行った。
さて雲六の死体は、又平がその夜近い山に運んでいって煙にして、後は丁寧に弔ったそうだ。
☆(訳者の注)
*1 平安時代前期の画家。巨勢派の祖。作品は伝存しないが文
献に多くの事跡をとどめ,唐風の絵画様式を日本化するう
えで重要な役割を果したと考えられる。
*2 今昔物語 巻十六 山城國女依観音助遁虵難語(やましろ
のくにのにょにんかんのんのたすけによりへびのなんをのが
れること)と同じ話。
蛇に娘を奪われそうになるが、救った動物(蟹、蛙など)に
助けられる説話は多数ある。
異類婚姻譚の蛇婿の話にはいくつかの類型があるが、これも
その一つである。
*3 江戸前期の女浄瑠璃太夫。寛永(1624-44)のころ京都四条
河原で浄瑠璃をかたり人気があった。
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
楓孝道あつきにより、夢中名画の奇特を得て、妖蛇の難儀をまぬかる。