十三 霊場の熱闘 (2/2)
こうして日も西山に傾いたので、参拝の人々は足を速めて各々様々に帰路を急いで、急にひっそりとした時に、一人の虚無僧が尺八の笛を持って、滝落(たきおとし)の曲を澄んだ音色で吹きながらここに歩いてきた。
(滝(瀧)落の曲https://www.youtube.com/watch?time_continue=1&v=ENxr2HEQ45M&feature=emb_logo)
その後ろについて腹巻(胴に着ける鎧)に小手、脛あてを付けた捕手の人々が、抜き足しながら忍びより良い頃だと思ったのか、前後左右を取り囲んで、一言の言葉もなく、手に手に十手を打ち振って、絡めて捕えようとかかっていったが、虚無僧は尺八でもって応戦して、しばらく打ち合っていた所え、思いがけず後ろの方の仮屋から、耳元に少しの鬢(びん)の髪を残して、頭を跡形もなく剃った大変おかしな男が、一本の棒を持って飛び出してきて、捕手の人々をめった打ちに打倒をすと、彼らは適うことが出来ずに、散り散りになって逃げ去った。
そしてその男は棒をカラリとなげ捨てて、平伏して土に額をすりつけて、うやうやしく言った「自分が察しますには、あなた様は佐々木の若殿桂之助国友公に間違いない。事実を御明かして下さいませ」と述べた。
虚無僧は頭を振って「これは思いがけない事を聞くものです。自分は一所にはいない修行僧で、もとより卑しい身分の者です。確かに人違いなされましたな」と言う。
その男はさらに言った「世の中を忍ぶ御身であれば、容易に事実を明かさないのも当然です。まず自分の身の上を先にお聞かせします。そもそも自分は御家の家臣名古屋山三郎の配下の鹿蔵と言う者の弟で猿二郎と言う者です。(巻之三 第九 参照)、もとは兄と共に山三郎に使えていましたが、自分は分けがあって仕事を辞めて、故郷の河内に帰ってくらしていると、名古屋三郎左衛門は不破伴左衛門の為に、闇討ちにあい、山三郎は平群の館の騒動に関連して、自分が住んでいる家に逃げて来て、一つはあなた様の行方を捜して安否を調べて、二つには伴左衛門を捜し出して父の仇を報いようと、私達に命じてあちこち捜せさせて、最近は山三郎は鹿蔵を連れて西国に旅立っていきました。自分は露の五郎兵衛と名を変えて、辻談義にかこつけて、京都、大阪は言うまでもなく、あちらこちらの人出の多い所に出向いて、ただひたすら捜していていました。しかしただ今あなた様に巡り合えたのは、私達主従の一念が届いた事です。世の中にいらっしゃる時は、自分達の様な者は卑しい身なので、あなた様の御身を拝見することは出来ませんのに、目の当たりに拝みますのはもったいない事です」と言って誠意が顔に表れているので、虚無僧はうなづいて「その様な真心を聞いては何も隠す事はない。お前の推量に違わず私は桂之助だ。お前の顔は見知らないが、山三郎はの配下に鹿蔵と猿二郎という二人がいるとは、以前より聞いていた」と言えば、猿二郎は「これはもったいない御言葉です。ありがたいほどに覚えておられます。不破道犬の悪意、奥方や若君の御身の上については、さまざま申し上げるべき事がありますが、途中では話せません。あの捕手の奴らは、人数を増やして、またここに来るのに決まっているので、はやく御身を隠して下さい。もしあの奴らが来たら、このようにして下さい」と耳に口をつけてささやいた。
さて、はるか向かいの方に家があった。明かり障子に一子相伝明方赤膏薬(いっしそうでんめいほうあかこうやく)と筆太く書き付けたのを入り口たて、外の方に多くの薬名を書いて招碑をかけて並べ、諸々の奇病の様子や解體の図などを画き、これらをも掲げて出しているのは外療(がいりょう・外科)の薬を売っている家である。
猿二郎は指さして「あそこは自分が旅宿しています。幸い主人は上京していて家にはおらず、ただろうあ者の老僕がいるだけです。誰も気になる者はいません」と、桂之助を誘ってその家に行って、中にいれると明かり障子を元のように閉めて、声を出さずにいた。
この時すでに日は暮れて、夕方の月の光が明かるかったが、果たして捕手の者達は人数を増やして来て、この家を取り囲み、声を大きく呼びかけて言った「さきほどこの家に隠れた虚無僧は、佐々木桂之助国友に疑いない。いいか国友お前は管領職濱名殿の内々の意向により、勘当を受けた事を遺恨に思って、ひそかに野武士や浪人どもと共謀して、濱名殿に敵対しようと計画した事を報告する者があり、お聞きになって、捕縛して来いと厳命を受けて、我々は駆け付けたのだ。逃れられない所だから、さっさと出てきて捕縛されろ。さきほど手向かいした奴めも、おまえの一味の者だろう。あの奴めもさっさとここに出せ、首を引き抜いて思い知らせてやるぞ」と口では勇ましく罵ったが、猿二郎の先ほどの手並みに恐れて、中に進んで入ろうとする者は一人もなく、ただうるさいだけだった。
その時明かり障子に人影が映り、桂之助の声がして「いいかお前ら静かにして私の言うことを聞け。私は恥をしのんで今日まで生きながらえて、一所に留まることなくさまよったが、どうせ武運に尽きた身なので、この場所で潔く、腹かき破って相果てるのだ。さあ首をとって手柄にしろ者ども」と呼びかけるが、やがて障子の隙間より、鮮血が寄り集まって流れ出た。
捕手の者達は我先に首を取って賞金をもらおうと、先を争い障子を打倒して中を見ると、これはどうしたことか桂之助ではなく、正面の腰掛けの上には、人の身長ほどに造った、五臓六腑を彩色した、神農(しんのう・ 中国の古伝説上の帝王)の胴人形(どうにんぎょう*)、右に匙(さじ)を持ち、左に薬草を取っているのを据え置いていた。
障子の隙間より血の海と見えたのは、赤い膏薬であった。それらの者達らはこれを見て、ただあきれて酒に酔った様な気がしたが「さては騙されたのか悔しいことだ。それにしても今の声は桂之助に間違いない。その辺に隠れているのに疑いない」と、奥の一部屋を目掛けて走り入ろうと密集して、誤って傍らにあったざるを踏み倒したのだが、たちまち多くの蛇がうねりながら出て、彼らの手足にまといつくと、驚いて騒ぎたて、また誤って軟膏鍋を踏んでひっくり返すと、軟膏が足に粘り付いてはなれない。蛇の手枷、軟膏の足枷、これを除こうとすれば、それに巻きつかれ、しばらく進退を失って、ただ騒動するのみであった。
頃合いが良しと猿二郎はたすきを引き結んで、着物の裾を上げて身軽な出で立ちで、明煌々(めいこうこう・ピカピカキラキラ)とした大太刀を抜いて、部屋の中から躍り出て、滅多斬り切りたてると、全員多いに狼狽して、一人として適う者はいなかった。
その大太刀は、元々居合の刃引太刀(刃を斬れないようにした太刀)なので、切りつけられた痕は、蚯蚓(みみず)腫れになるだけで、命に別条はないと言っても、何度も魂を奪われて、心がますます臆病になった者達なので、餅にくっついた蝿の様に、倒れ伏したまま起きられず、手をすり足をすり口々に「許して下さい」と詫びながら、かろうじて起き上がったが、傷を持った足の膏薬に、引き戻されるような気がして、倒れたり転がったりして逃げて行った。
猿二郎は大太刀を捨てて、笑い声をあげて「なんとも臆病な奴らだな。因果娘の蛇たちが、思いがけず用に立ったのは、禍の三年目(わざわいも三年置けば用に立つ)とも言うべきだ」と独り言を言って、蛇たちをもとのざるの中に入れて、部屋の中から桂之助を伴って出て「彼らを殺してしまっては、かえって後日の妨げになりますので、わざと刃引太刀を使って脅しました。よくよく思いますには、不破道犬があなたを葬り去ろうと計画して、管領の命令と偽って、あなたの御心に覚えのない事を申し立てて、捕手を向かわせたのに疑いない。大切な御身なので、かならずしも軽々しく出歩かないでください。彼らが一度見て覚えたこの家に隠しておくのは危険なので、今夜のうちに別の所に御居場所を移します。さあ、そうしましょう」とうながして、ついに二人は出て行った。
〇(原著者の解説)
徒然草に、めなもみと言う草(キク科メナモミ属の一年草)は、蛇にかまれたのに良い事が記述しているが、 いまだに試した事がない。
蛇にかまれたら、串柿(干し柿)の肉を粘飯(そくいい・続飯、飯粒をつぶして作ったのり)のように練ってつけるのに及ぶものはない。
度々試してみたが、一度も効果がなかった事はない。よく刻んで煎じて飲んでもよい、蛇毒を消す。
本文の蛇の話に関連して、ふと思い出したまま筆のついでに書いておく。
(もしこれを実践した方がいましたらお知らせ下さい{訳者})
☆(訳者の注)
* 人体内部の血管や内臓の様子が見えるようにつくった人形。張子の解剖人形。薬屋の店頭に看板として置かれた。
【画像は東京国立博物館画像検索より(表記は銅人形となっている)】
【図は立命館大学ARC古典籍ポータルデータベース hayBK02-0004 より】
辻講義露の五郎兵衛、実は山三郎がしもべ猿二郎、佐々木桂之助の危難をすくふ。