第十四 二人比丘尼発心の記。
こうして次の日になり蝦蟇丸は、姉妹に向かって言葉をやわらげ「母は性格が悪いので、懲らしめのため、追い出したので、必ず慕うことはないように。お前達は私に背かず、この家にとどまっていれば、深い憐れみを持って養育して、もう少し歳をとったら、賑(にぎ)やかな所へ行かせて、顔を紅や白粉で彩り身には美しい着物を着て朝夕酒宴、楽器に明け暮れて、楽しみの多い身となる。そのうち小萩の性格もなおれば、再び呼び戻して、親子一緒にいさせてやる。もしまたお前等が私の意に背き、ここを走り出でたりなどしたら、すぐに追って捕まえて、母子三人共に命を取る。必ず良くない考えを出してはいけない」と、脅したりすかしたりしながら言って、縛っていた縄をほどいて、食べ物を与えたが、二人はとにかく母の身が心配で、追って行きたいと思う心で一杯であったが、麓(ふもと)に下る道すらよく知らず「もし追われて捕まれば、母も共に命を取られる」と、思えばなすべき方法もなく、虎の穴に住む気持ちがして、物陰に入って泣かない日はなく、粗末な袖を干すことなく(涙で絶えず濡れていること)明け暮らした。
さて蝦蟇丸が野分の方に話すには「我があの池で盗賊をすることは、知る者はいないだろう思っていたが、ひそかに聞けば、検非違使(けんびいし・検察や警察の様な役人)の下っ端どもが、我を捕まえようと計略しているわけで、もはやあそこで仕事をすることはできず、といっても京に近い辺りでは、はかばかしい働きもできず、他国へ移って行こうと思う心がある。日向の国に我の手下の賊どもがいるので、我はまずその国に行って、手下の者たちと共謀して住み家を手に入れて、帰ってきてあなた達を連れてゆく。留守のうちは姉妹の子供に気をつけて、逃がさないように。彼女達は揺銭樹(金のなる木)だ」と言い含めて、すぐに出発して、日向を目指して急いだ。
こうして次の日になり蝦蟇丸は、姉妹に向かって言葉をやわらげ「母は性格が悪いので、懲らしめのため、追い出したので、必ず慕うことはないように。お前達は私に背かず、この家にとどまっていれば、深い憐れみを持って養育して、もう少し歳をとったら、賑(にぎ)やかな所へ行かせて、顔を紅や白粉で彩り身には美しい着物を着て朝夕酒宴、楽器に明け暮れて、楽しみの多い身となる。そのうち小萩の性格もなおれば、再び呼び戻して、親子一緒にいさせてやる。もしまたお前等が私の意に背き、ここを走り出でたりなどしたら、すぐに追って捕まえて、母子三人共に命を取る。必ず良くない考えを出してはいけない」と、脅したりすかしたりしながら言って、縛っていた縄をほどいて、食べ物を与えたが、二人はとにかく母の身が心配で、追って行きたいと思う心で一杯であったが、麓(ふもと)に下る道すらよく知らず「もし追われて捕まれば、母も共に命を取られる」と、思えばなすべき方法もなく、虎の穴に住む気持ちがして、物陰に入って泣かない日はなく、粗末な袖を干すことなく(涙で絶えず濡れていること)明け暮らした。
さて蝦蟇丸が野分の方に話すには「我があの池で盗賊をすることは、知る者はいないだろう思っていたが、ひそかに聞けば、検非違使(けんびいし・検察や警察の様な役人)の下っ端どもが、我を捕まえようと計略しているわけで、もはやあそこで仕事をすることはできず、といっても京に近い辺りでは、はかばかしい働きもできず、他国へ移って行こうと思う心がある。日向の国に我の手下の賊どもがいるので、我はまずその国に行って、手下の者たちと共謀して住み家を手に入れて、帰ってきてあなた達を連れてゆく。留守のうちは姉妹の子供に気をつけて、逃がさないように。彼女達は揺銭樹(金のなる木)だ」と言い含めて、すぐに出発して、日向を目指して急いだ。
こうして野分の方は留守を守り、子供達に煮炊きの仕事をさせ、自分はただなにもせず座って食べて、姿を飾ることだけして過ごした。
憐れな姉妹は幼い身で、朝夕の煮炊に使われ、その間には糸を紡ぎ苧(からむし・イラクサ科の多年草)をうみ(長くより合わせて糸にする)、未明に起きて夜遅くに寝て、少しでも怠ると強く打ち付けるので、いつも身体の生傷が絶えなかった。少しでも意に背けば食事をさせないので、日に日にやせ細り、数々の苦しみを耐え忍んで暮らした。
野分の方はそれでもまだ使い足りないのか、ある時命じたのは「今日から毎日朝夕の煮炊きの間に山に行って、姉は七杷の柴を刈り、妹は五杷の柴を刈りなさい。金銭に代えて日々の生活費に足しなさい。一杷でも不足でったら、縛り付けて、痛く打ってやる、必ず怠けるな。とっとと行け」と追いやった。
彼女達は山の家に育ったとはいえ、母の情けで、これまでこの様な仕事はしたことがないので、山道の様子もよく知らない。鋭く切り立った高い山、鬱蒼と繁る峯、道もない木の下を分け登り、白くて美しい足はいばらの為に血だらけになり、黒く艶やかな髪に蜘蛛の巣を被せて柴を刈るので、身体の中より痺れて手足が萎えて、息をするのも疲れて耐えられない。しかし決めれれた数を刈らないと、酷い目にあうと思うと、身体の辛さを耐えて刈り、姉はなんとか七杷の柴を刈ったが、妹はほんの十歳の幼女なので、ようやく三杷を刈り、日はすでに傾いていたので、姉に向かって言った「私の柴、決められた数に二杷足りないので、このまま帰ると、必ず痛く打たれる。でも日はもう暮れそうだし、もう柴刈ることもできない。これどうしよう」と言って泣いたので、松虫は妹の背中をなでながら「そんなに嘆かないで。私が刈った柴のうち二杷を分けて、あんたの柴の数を合わせて帰ろう。気にするな」と言うと、鈴虫は行った「それでは、姉上の柴の数が不足して、姉上の身が打たれてしまう」松虫は「私はよいように言いくるめて、難儀を逃れる。もう夕飯を調理するころなので、こうい言っているうちにも、帰りの時に遅れれば、尚あの人を怒らせる。とのかく帰ろう。必ず泣き顔を見せないように」と言いながら、鈴虫の後れ毛をかき上げ、着物の塵を払って取って、二人ともに柴を背負って、腰も立たないほどの重さを耐え忍んで、家に帰った。
野分の方は二人の柴を調べて見て、たちまちまなじりを釣り上げて、松虫を睨んで言うには「憎い奴だ、妹でさえ決められた数を刈ったのに、お前は年上でありながら、二把も不足したのは、結局仕事を怠るからだ。後日の見せしめのため、さあさあ辛い目を見せてやる」と、割れた木を取って打ちつけると、鈴虫は泣き声になって「姉上の柴が足りないのは、もとは私の罪です。私を打って姉上を許してよ」と野分の方の袖にすがるのを松虫は押しのけて「お前は嘘言って、私を助けようと思っても、どのようにして真実とする事ができるのか。なにも言うな。下がっていなさい」と叱りながら覚悟の様子に見えるが、なお鈴虫の胸の苦しさは、言うまでもない。野分の方は松虫を掴まえて、柴小屋に連れて行き、粗末な着物を剥いで全裸にして高手小手(緊縛の手法・後ろ手に組んだ腕の手首を肘より上に縛り、胸の上下に胸縄を巻く)に縛って捨てて置いて、松虫に向かって「お前も言うこと聞かないと、姉のようになる、よく見て」おけ」と言って睨めば、松虫は身の毛がよだって恐ろしくて、ただ忍び泣いていた。
こうして時間がたって、野分の方は寝室に入って眠りにつき、夜もしだいに更けて、巴峡の猿(はきょうのさる・峡谷に鳴く猿・中国湖北省巴東県地方の巴峡が由来)の一叫び、心騒がしいムササビも、哀れを感じさせる原因となって、寒月が明るく光って壁の亀裂から漏って、飯笹の茂る竹を吹き鳴らす北風は松虫の肌に冷えて通り、身体の中は氷の様になって、今にも気絶しそうな心地がした。この時に鈴虫は、抜き足ししながら柴小屋に来て、袖に隠した一塊の飯を取り出して松虫に食べさせて、自分の着物をぬいで着せて「姉上、さぞおなかがすいたことでしょう。身体の痛みはどうですか。私のためにこの様に苦められるのは申し訳ないです」と言って取り縋り、思わず声を出して泣くと、松虫は目配せして止めて「もしあの人の眠りを醒ますと、あなたもまた辛い目にあわされる。はやく戻って寝なさい。私にかまうことはない」と全てを胸の中で諦めて、言葉に出さないが、母と別れて自分のみを頼りに思う心には、さぞ悲しい思いだろうと、推量されて胸を裂ける思いで、忍び涙に声をつまらせて泣いた。こうして翌朝になり、鈴虫は野分の方に、姉のことを泣きながら詫びれば、ようやく聞き入れて、柴小屋にいって、「これより後は十把づつの柴を刈りなさい。それを心得るなら許してやる」と言う。松虫「何であっても、言われた事にそむきません」と言うと、しぶしぶ縄を解いて許した。野分の方は自分は誰よりも子を憐れんで、桜姫の行方は何処かと一時も忘れず悲しんでいるが、それにひきかえて、この様に人の子を憎むことの甚だしいのはどうであるか。まことにこれは、類まれな悪女である。
そうしているうちに姉妹の子供は、毎日山へ行って柴を刈り、人が来ない山奥まで入っていったが、ある日松虫は岩の端に尻をかけて休息して、辺りを見渡すと、谷底にまばらに消え残る雪の中に、一体の屍が横たわっていた。しきりに胸騒ぎがして、もしや母ではないかと怖いのをこらえて、姉妹手を取って岩の端を足場にして、なんとか谷に降りてみると、果たして母の死骸であった。このごろ続いた雪空に、餓えた烏が死骸の上に群がり「ああ、悲しい」と走り寄り、あっちに追い払えば、こっちに寄り集まるのになすすべもなく、木の枝を取ってようやく追いやり、姉妹は死骸に取り付いて「お母さん、何故こんな山奥に来て、死んだのでしょうか。そうとは知らず今日まで再び会うのを楽しみに、邪険な呵責に耐え忍んで暮らしていたのに、無駄な有様、情けないお姿。さあねえお母さん」といって屍を揺り動かして、かわるがわる口説きたて、天を仰いで嘆き、地に倒れて悲しみ、身を悶えて息がきれ、声がかれるほど叫んで、狂人のごとく狂った有様で、哀れと言っても言い尽くせない。
これより後七日毎に姉妹はここに来て、花を供え水を手向け、念仏を唱えて弔った。そもそも人の死骸が腐れ爛れて日々変化することは、九相の詩(鎌倉時代に描かれた九相詩絵巻・死体の変化が描写されている)に詠われ無常の詩に加えられて、今更言うまでもないが、ざっと書いて、子女に善行を進める一端とする。
さて姉妹の子供が七日目に行ってみれば、もとは見えていた面影のあともなく、かつて人であったと思われず、髪は棘(おどろ・草やぶ)の様に乱れて、五体は青く腫れ爛れて、目玉は烏のために食い出され、唇は腐って落ちて歯がむき出し、おそろしい光景を見て涙も止まらず、二度目の七日に行ってみると、空に吹く風は四方に臭気を送り形は腫れに腫れて、ところどころの肉が切れ腹も破れて、内臓が辺り散乱して、目も当てられない光景である。姉妹は涙を拭う暇もなく成等正覚(じょうとうしょうがく・迷いを去って完全な悟りを開くこと)のみを思って弔った。三度目の七日に行ってみると、形は繋がらず、肉も腐って流れて、白い蛆となって、青蝿が集まって周囲に満ちて、臭気は盛んに人を汚し、かっつての面影はどこえ行ってしまったのかあきれるほどひどい、姉妹は泣く泣く頓証菩提(とんしょうぼだい・速やかに悟りの境地に達すること)と回向して帰った。四度目の七日に行ってみると、もう臭気は薄くなって、骨に残った肉も乾き、白い蛆もあちこちにはい散って、青蝿も今はいない。乱れた髪は風に散って、所々の草に纏わり付いて、どこの人の果てとも見てわからず。無常の詩に「百味を食らいて婀娜たる鳳體も、徒に犬烏の糞尿と為る(美味珍味を食べて美くしく大きくなった鳥も、いずれ犬烏の糞尿になる)」と詠うのも道理である。さて夢と過ぎて、もう五度目の七日になった。姉妹が行って見ると、枯草の中に野篶(すず・黒い竹)の下に残っていた骨も、バラバラになっていた。男女の区別もつかず、雨が注いで日にさらされて臭気も全くない。だだ一つの笠がむなしく破れて残って枕になっていた。一枚の襤褸(ぼろ布)が少しだけ掛かっていたが、風化して塵となった。
姉妹の子供は、屍が腐り爛れることも気が付かず、別れを惜しむあまりに土に埋めることも考えなかったが、七日毎にこの様に変化する様子を見て、幼心に泡沫無常の世を悟って松虫が言ったのは「どうなの妹、あんたはなんと思うのか、唯々この世に長くいて、鬼のようなあの官女に追使われて、生き地獄の責め苦を受けるよりは、お母さまのあとを追って、草場の陰(あの世)という所へ行き、親子一緒に暮らす気はないか]と言へば、鈴虫は言った「お母さまのいる所へ行くのであれば、たとえどの様な苦しみを受けても、どうして嫌がるでしょうか。お姉さま、早くお母さまの所へ連れて行ってよ」と言うのに、松虫さめざめと泣き「良い子だ、よく言った。そう思うなら、あの方に向かって念仏しなさい」と言って西のほう向かわせれば、鈴虫は小さい手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えた。松虫も西に向かって「お母さまと同じ蓮に導いて下さい」と願って、小石を拾って袂に入れて、姉妹は抱き合い、谷川の深みに身を投げようとしたその時、背後の木陰より「まて、まて、二人とも早まるな、ちょっと、ちょっと」と声を掛け、一人の僧がはしり出て押しとどめれば、姉妹は思いがけない事に驚きながら「覚悟を決めて死ぬ者です、放して死なせて下さい」と言えば、僧は言った「身を失おうと思い詰めたほどであれば、きっと止められない理由があるのだろう。その詳しい話を語ってくれ」と言う。
野分の方はそれでもまだ使い足りないのか、ある時命じたのは「今日から毎日朝夕の煮炊きの間に山に行って、姉は七杷の柴を刈り、妹は五杷の柴を刈りなさい。金銭に代えて日々の生活費に足しなさい。一杷でも不足でったら、縛り付けて、痛く打ってやる、必ず怠けるな。とっとと行け」と追いやった。
彼女達は山の家に育ったとはいえ、母の情けで、これまでこの様な仕事はしたことがないので、山道の様子もよく知らない。鋭く切り立った高い山、鬱蒼と繁る峯、道もない木の下を分け登り、白くて美しい足はいばらの為に血だらけになり、黒く艶やかな髪に蜘蛛の巣を被せて柴を刈るので、身体の中より痺れて手足が萎えて、息をするのも疲れて耐えられない。しかし決めれれた数を刈らないと、酷い目にあうと思うと、身体の辛さを耐えて刈り、姉はなんとか七杷の柴を刈ったが、妹はほんの十歳の幼女なので、ようやく三杷を刈り、日はすでに傾いていたので、姉に向かって言った「私の柴、決められた数に二杷足りないので、このまま帰ると、必ず痛く打たれる。でも日はもう暮れそうだし、もう柴刈ることもできない。これどうしよう」と言って泣いたので、松虫は妹の背中をなでながら「そんなに嘆かないで。私が刈った柴のうち二杷を分けて、あんたの柴の数を合わせて帰ろう。気にするな」と言うと、鈴虫は行った「それでは、姉上の柴の数が不足して、姉上の身が打たれてしまう」松虫は「私はよいように言いくるめて、難儀を逃れる。もう夕飯を調理するころなので、こうい言っているうちにも、帰りの時に遅れれば、尚あの人を怒らせる。とのかく帰ろう。必ず泣き顔を見せないように」と言いながら、鈴虫の後れ毛をかき上げ、着物の塵を払って取って、二人ともに柴を背負って、腰も立たないほどの重さを耐え忍んで、家に帰った。
野分の方は二人の柴を調べて見て、たちまちまなじりを釣り上げて、松虫を睨んで言うには「憎い奴だ、妹でさえ決められた数を刈ったのに、お前は年上でありながら、二把も不足したのは、結局仕事を怠るからだ。後日の見せしめのため、さあさあ辛い目を見せてやる」と、割れた木を取って打ちつけると、鈴虫は泣き声になって「姉上の柴が足りないのは、もとは私の罪です。私を打って姉上を許してよ」と野分の方の袖にすがるのを松虫は押しのけて「お前は嘘言って、私を助けようと思っても、どのようにして真実とする事ができるのか。なにも言うな。下がっていなさい」と叱りながら覚悟の様子に見えるが、なお鈴虫の胸の苦しさは、言うまでもない。野分の方は松虫を掴まえて、柴小屋に連れて行き、粗末な着物を剥いで全裸にして高手小手(緊縛の手法・後ろ手に組んだ腕の手首を肘より上に縛り、胸の上下に胸縄を巻く)に縛って捨てて置いて、松虫に向かって「お前も言うこと聞かないと、姉のようになる、よく見て」おけ」と言って睨めば、松虫は身の毛がよだって恐ろしくて、ただ忍び泣いていた。
こうして時間がたって、野分の方は寝室に入って眠りにつき、夜もしだいに更けて、巴峡の猿(はきょうのさる・峡谷に鳴く猿・中国湖北省巴東県地方の巴峡が由来)の一叫び、心騒がしいムササビも、哀れを感じさせる原因となって、寒月が明るく光って壁の亀裂から漏って、飯笹の茂る竹を吹き鳴らす北風は松虫の肌に冷えて通り、身体の中は氷の様になって、今にも気絶しそうな心地がした。この時に鈴虫は、抜き足ししながら柴小屋に来て、袖に隠した一塊の飯を取り出して松虫に食べさせて、自分の着物をぬいで着せて「姉上、さぞおなかがすいたことでしょう。身体の痛みはどうですか。私のためにこの様に苦められるのは申し訳ないです」と言って取り縋り、思わず声を出して泣くと、松虫は目配せして止めて「もしあの人の眠りを醒ますと、あなたもまた辛い目にあわされる。はやく戻って寝なさい。私にかまうことはない」と全てを胸の中で諦めて、言葉に出さないが、母と別れて自分のみを頼りに思う心には、さぞ悲しい思いだろうと、推量されて胸を裂ける思いで、忍び涙に声をつまらせて泣いた。こうして翌朝になり、鈴虫は野分の方に、姉のことを泣きながら詫びれば、ようやく聞き入れて、柴小屋にいって、「これより後は十把づつの柴を刈りなさい。それを心得るなら許してやる」と言う。松虫「何であっても、言われた事にそむきません」と言うと、しぶしぶ縄を解いて許した。野分の方は自分は誰よりも子を憐れんで、桜姫の行方は何処かと一時も忘れず悲しんでいるが、それにひきかえて、この様に人の子を憎むことの甚だしいのはどうであるか。まことにこれは、類まれな悪女である。
そうしているうちに姉妹の子供は、毎日山へ行って柴を刈り、人が来ない山奥まで入っていったが、ある日松虫は岩の端に尻をかけて休息して、辺りを見渡すと、谷底にまばらに消え残る雪の中に、一体の屍が横たわっていた。しきりに胸騒ぎがして、もしや母ではないかと怖いのをこらえて、姉妹手を取って岩の端を足場にして、なんとか谷に降りてみると、果たして母の死骸であった。このごろ続いた雪空に、餓えた烏が死骸の上に群がり「ああ、悲しい」と走り寄り、あっちに追い払えば、こっちに寄り集まるのになすすべもなく、木の枝を取ってようやく追いやり、姉妹は死骸に取り付いて「お母さん、何故こんな山奥に来て、死んだのでしょうか。そうとは知らず今日まで再び会うのを楽しみに、邪険な呵責に耐え忍んで暮らしていたのに、無駄な有様、情けないお姿。さあねえお母さん」といって屍を揺り動かして、かわるがわる口説きたて、天を仰いで嘆き、地に倒れて悲しみ、身を悶えて息がきれ、声がかれるほど叫んで、狂人のごとく狂った有様で、哀れと言っても言い尽くせない。
これより後七日毎に姉妹はここに来て、花を供え水を手向け、念仏を唱えて弔った。そもそも人の死骸が腐れ爛れて日々変化することは、九相の詩(鎌倉時代に描かれた九相詩絵巻・死体の変化が描写されている)に詠われ無常の詩に加えられて、今更言うまでもないが、ざっと書いて、子女に善行を進める一端とする。
さて姉妹の子供が七日目に行ってみれば、もとは見えていた面影のあともなく、かつて人であったと思われず、髪は棘(おどろ・草やぶ)の様に乱れて、五体は青く腫れ爛れて、目玉は烏のために食い出され、唇は腐って落ちて歯がむき出し、おそろしい光景を見て涙も止まらず、二度目の七日に行ってみると、空に吹く風は四方に臭気を送り形は腫れに腫れて、ところどころの肉が切れ腹も破れて、内臓が辺り散乱して、目も当てられない光景である。姉妹は涙を拭う暇もなく成等正覚(じょうとうしょうがく・迷いを去って完全な悟りを開くこと)のみを思って弔った。三度目の七日に行ってみると、形は繋がらず、肉も腐って流れて、白い蛆となって、青蝿が集まって周囲に満ちて、臭気は盛んに人を汚し、かっつての面影はどこえ行ってしまったのかあきれるほどひどい、姉妹は泣く泣く頓証菩提(とんしょうぼだい・速やかに悟りの境地に達すること)と回向して帰った。四度目の七日に行ってみると、もう臭気は薄くなって、骨に残った肉も乾き、白い蛆もあちこちにはい散って、青蝿も今はいない。乱れた髪は風に散って、所々の草に纏わり付いて、どこの人の果てとも見てわからず。無常の詩に「百味を食らいて婀娜たる鳳體も、徒に犬烏の糞尿と為る(美味珍味を食べて美くしく大きくなった鳥も、いずれ犬烏の糞尿になる)」と詠うのも道理である。さて夢と過ぎて、もう五度目の七日になった。姉妹が行って見ると、枯草の中に野篶(すず・黒い竹)の下に残っていた骨も、バラバラになっていた。男女の区別もつかず、雨が注いで日にさらされて臭気も全くない。だだ一つの笠がむなしく破れて残って枕になっていた。一枚の襤褸(ぼろ布)が少しだけ掛かっていたが、風化して塵となった。
姉妹の子供は、屍が腐り爛れることも気が付かず、別れを惜しむあまりに土に埋めることも考えなかったが、七日毎にこの様に変化する様子を見て、幼心に泡沫無常の世を悟って松虫が言ったのは「どうなの妹、あんたはなんと思うのか、唯々この世に長くいて、鬼のようなあの官女に追使われて、生き地獄の責め苦を受けるよりは、お母さまのあとを追って、草場の陰(あの世)という所へ行き、親子一緒に暮らす気はないか]と言へば、鈴虫は言った「お母さまのいる所へ行くのであれば、たとえどの様な苦しみを受けても、どうして嫌がるでしょうか。お姉さま、早くお母さまの所へ連れて行ってよ」と言うのに、松虫さめざめと泣き「良い子だ、よく言った。そう思うなら、あの方に向かって念仏しなさい」と言って西のほう向かわせれば、鈴虫は小さい手を合わせて「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱えた。松虫も西に向かって「お母さまと同じ蓮に導いて下さい」と願って、小石を拾って袂に入れて、姉妹は抱き合い、谷川の深みに身を投げようとしたその時、背後の木陰より「まて、まて、二人とも早まるな、ちょっと、ちょっと」と声を掛け、一人の僧がはしり出て押しとどめれば、姉妹は思いがけない事に驚きながら「覚悟を決めて死ぬ者です、放して死なせて下さい」と言えば、僧は言った「身を失おうと思い詰めたほどであれば、きっと止められない理由があるのだろう。その詳しい話を語ってくれ」と言う。
松虫は心を落ち着かせて「死ぬときに御出家と会うとは幸いです。この様な際になってなにも隠すことはないです。詳しく語りますので、願はくば導いてもらって来世を助けて欲しいです。私は松虫と言って、これは妹で鈴虫と言います。父は下野(しもつけ)の国の住人で、須田彌兵衛(すだやひょうえ)と言って、木曽の一門に仕えた者ですが、去る寿永の始めに、木曽殿が滅びて、御一門散り散りとなって、父もこの山中に隠れて樵(きこり)となり、私達姉妹をもうけましたが、三年前に亡くなりました。母は小萩と言いますが、先月雪の中で死んで、これはその遺骨です」と語り、蝦蟇丸の事、野分の方の邪険な事、母の屍を七日毎に変わるのを見て、世の無常を悟り死のう思い詰めた気持ちまでを、細かく語って嘆けば、この僧もたいへん哀れに思い、墨染めの袖(涙で濡れた)を絞り、すこしあって言った「私は法然上人の弟子で、常照坊と言う者だ。今朝上人が私をよんで命じたのは、『昨夜の夢で仏がお告げになったのは、愛宕の山奥に、姉妹で孝行の心が深い幼女がいる、今すでに前世の悪事の報いが消滅して菩提(悟りの境地)の道に入るべき時がきた。早くいって教え諭して弟子にしなさいと告げられた。ゆえに、私はそこへ行って尋ねようと思っていたが、去年流刑地から帰京した後歩くこともできないので、お前が私の代わりにそこへ行って捜しなさい。仏の告げることに間違いはない』と命じられて、今日この山中を捜すと、果たしてあなた達と会った。幼いとは言え、私の教えを聞きなさい。そもそも女性は高い建物に隔てられて・・・(後の仏教の教えは省略)檀林皇后は九相(死後の変化)を観念して素懐(そかい・出家、極楽往生の願い)をとげ、法如禅尼は継母の憎しみを受けて、正覚(悟り)に帰依した例もある」と、こまごまと教え諭せば、姉妹は幼い心にもおおいに悟りを開き喜びの涙を流し、剃髪受戒を願うと、常照坊はたいへん喜んだ。
さて、松虫は母の遺骨を集めて、昼食の器を入れる袋に納めて首にかけて「さあ一緒に」と言うと、僧は二人の手を取って山を下り、大谷の庵室(あんじつ・僧侶の住まい)につくと、法然上人は二人を剃髪して、法衣を与えて憐れんだ。そして上人に帰依していた大檀家の月の輪の禅閤(九条兼実)はこの事を聞いて、たいへん哀れに思って、二人の幼女に扶助を与え養った。
建暦二年正月二十五日、上人が亡くなる最後まで、この少女達は、病床を離れず看取った。
建暦二年正月二十五日、上人が亡くなる最後まで、この少女達は、病床を離れず看取った。
(この後、尼僧となった「二人比丘尼」の考察が記述されているが省略する。現在でも児童虐待やかんぽ生命の様に過酷なノルマを与える企業が絶えないのは、 日本人の価値観には過去から逃れられない因果でもあるようです?野分の方は現在の日本にもいる経営者のようです{訳者})
(図の文言 野分の方松虫鈴虫兄弟の幼女をにくみ常に打擲て責つかふ)
(図の文言 兄弟の幼女母の屍をみつけて嘆悲む)
(図の文言 兄弟の幼女母の屍の九相の変するを観て無常の世を悟し溪水に身を投とするを常照阿闍梨これをとどめ教化して法然上人の徒弟とす二人比丘尼といふは是なり