徒然草~思い付いたことの掃き溜め~
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私が他人と話すときに

一番使わないようにしている言葉です

嫌いなんですよ

この言い出し


でもたぶんどこの世界でも使うよね

教師として警察官として国会議員として

店長として部下として客として

社会人として学生として本校生として

友として親として人として


ねぇ

胸くそ悪いですねぇ


この「○○として」という言葉は

相対的に見えて

実は二者間には強力な絶対性を持った言葉です


想像してみてください

映画監督が新米の映画監督に演出を巡って言いました、と

議論は平行線

ベテランの方は捨て台詞に

「映画監督としてこんな演出はありえない」


言われた側からしたら

「映画監督」とはそういうものだ

そんな風に聞こえますよね

言った側も

「映画監督」を

代表するような気持ちで言ってますよ

そうでないと捨て台詞の意味ないですから

お互いに絶対的な言葉なんですよ


でもね

例えば映画の場合

慣例通りの描写しかしなかったら

たぶん未だに時代劇を作ってますよ

勧善懲悪型の

一人の主人公+αが

何十人もの敵をばっさばっさ

そんなのばかり見せられても

つまらないでしょう?

進歩しないんですよ

「○○として」

という言葉を使っている限り

進歩しないで現状に甘える

ひどいときには

自分と合わない意見を

ただ「違う」と言って

無かったことにして

この世界は健全だと思い込む

それがこの言葉の魔力です


第一ね

「○○として」なんて

完全な代表者がいるのなら

その分野はもっと完成されてる

完璧でしょう?

でもそんな世界ないでしょう?

だから「代表者」なんていないのですよ

「○○として」なんて

言える人はいないんですよ

本当は


さらにひどいことに

「○○として」なんて言うやつに限って

その分野で大したことない人間が多いです


そんな言葉に胡座をかいていては

なにも進歩しないんですよ


とにかくね

「○○として」の後に続く

意見を考えているのは

「あなた」でしょ?

ということです

「教師として」と言う

あなた

教師全員にアンケートでもとって

100%一択の答えにでもなったというのですか?

違うでしょ?

そう思っているのは

「あなた」です

圧倒的多数の○○ではない

あなたは○○の代表者でもない

そういったことを意識することが

言葉への責任でもあると思います