筆者の育った環境は、敗戦直後の子沢山な貧乏生活。
産めよ増やせの国策に8人兄弟の下から2番目の次男だった。
偶然にも上から4人が女で、男女男男で戦死者は居ない。
人が羨む環境でも貧乏生活は人並みか、それ以上で有った気がする。
生まれる前の話だが、租祖父が名誉職で受け判で財産全て無くし。
財産放棄した父の兄は東京で文部省の職員のまま。
父は祖父の借金を全て返すと日本統治地から急遽帰国し開業。
繁華街の、ど真ん中で二件の家を一軒に纏め歯科開業。
4歳の子供が見ても、四間半の間口は広大で威厳が有った。
家の階段は患者用と来客用、家族用(トイレ用)で階段に開閉用の板。
当時の便所は、ぼっとん便所で臭い。
その匂い消しに階段に蓋が有った。
真向いは大きな料亭で同じ四間半の間口・・・玄関前の庭で良く遊んだ。
甘木(朝倉)と言う地方は、
朝鮮征伐に(斉明天皇=女帝)が「木の丸殿」を建立されご高齢の為、
死去され、中大兄の王子=天智天皇様が悲しみに当地で読まれた歌が、小倉百人一首の最初の歌として残されている。
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親族の中に天皇家と関係が有ったと家系図で威張る家が在った由。
父は数十年かけて今の金で家数件が建つ借財を全て返し、
子供に借金は残さないが自慢だった。
受け判させた本人は、借財が全て返済されたと知るや舞い戻り、
昔の場所で昔の商売を再開、鉄面皮で平気の平左。
父が言うには、町で出会っても、そっぽを向くそうだ。
家柄などチリ芥・・・失った物など帰っては来ぬ・・・。
思いでがたりを書けば1冊の本に成る・・放下著それでよい。
の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は