昭和という言葉で想起されるものはなに? 終戦後に激変した町の様子
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終戦の日から間もなくして4歳の誕生日だった。
8月14日米軍が空から町に大量のビラを撒き、明日町を爆撃するから町民全員郊外へ逃げよと書いて有ったよし。
東洋一と言われた大刀洗飛行場の近接地に有った歓楽街でした。
逃げたが、避難先から断られ町の我が家に戻り、防空壕で朝を迎えた。
開けて15日、玉音放送を父が聞き、戦争は終わったと喜んだ直後、
爆撃から解放され町中が歓喜に包まれ~
夜は提灯行列で大騒ぎした様だ。
8人の子沢山だった我が家は子供の外出は禁止された。
町の繁華街は二組のヤクザが仕切っていたが、朝鮮ヤクザが威張りだし、町の料亭や飲み屋は困り果て日本のヤクザに店の警護を依頼。
警察は拳銃携帯さえ禁止され借りてきた猫同様で役立たずと成った。
終戦直後から、町内にあった「管区」と呼ばれた場所に進駐軍が来た。
大型の警察犬がMPの横で警備にあたる姿が物珍しく遠目に見た。
官区の庭は特別に許された筆者専用の蝉取り場所だった。
庭には筆者の小便の後が至る所にあり米軍の軍用犬は嗅いだはず。
その証拠に、筆者に対して軍用犬はお構いなしだった。
仲間は管区を仕切る塀の上に上がっても軍用犬に脅されたが、
筆者に対しては単なる無視だった。
憲兵とはすぐに顔なじみと成り、話しかけられたが通じない。
田舎なのに映画さながらの修羅場を何度も見た。
竹馬の友の姉兄弟で経営していたバッカスと言うバーでヤクザ同士の殺し合いが在り、日本中から数10数100人のヤクザが終結~~、
県警から大勢の警察官が来て、暫くは三つ巴の戒厳令状態だった。
当時ジャックナイフと言う飛び出るナイフがあったが実物を触った。
危険な武器として今は製造も所持も禁止。
激動の戦後を生きてきました。