長崎原爆のあの日あの時、従兄弟家族は佐世保に住んでいたそうだ。
筆者と従兄弟は→父同士は親友で母同氏は姉妹だったが故か❕
お互いの子供同士も仲が良かった。
但し、甘木と佐世保と遠方の為、会えるのは年1~2回でした。
年越しの餅搗きで、母の実家に姉妹家族が集ったとき、
父は明日・・・コケコラス(方言)=個々に来るなど、言葉の違いに戸惑った。
戦後10年強、長じた筆者は一人で、夏休みに従兄弟に会いに行った。
この日だったかどうかは定かでないが、暑い長崎市内を歩き回った。
市内電車は動いていたが、浦上天主堂跡地は瓦礫状態で、
残された階段跡に黒く焼け焦げた人型が残っていた。
若さ故と持ち金が少なかった為に、広い長崎市内を歩きに歩いた。
長崎原爆の平和記念像は、まだ無かった気がする。
そして近年、従兄弟は脳梗塞となり、手足が不自由となり、
会いたくないとと電話で伝えてきた…さもありなん。
運命の蝋燭の火は何方が先に消えるかは、風任せだが❓❔
夏の青春時代の思い出の一つ、ブログ文として残す。