テーマが重いが、(親殺し子殺しが日常的に聞こえてくる現在)我が家を振り返ってみた。
8人の子持ちとなった明治35年生まれの父母が、何を子に託したか・・・。
他の兄弟姉妹に何を伝えたか知らない。
私が教えられた事は、例え如何なる時でも、身に寸鉄を帯びていなくても、
気概として腰に刀を持っている心算でいろ。
父は父なりに、3人の男兄弟には、この心構えを伝えたと思う。
しかし兄弟は3人三様の理解をして、兄は反発し今は他界した。
弟は親よりも、親子ほど年の離れた長姉を慕い続けた。
姉達に対しては、嫁ぎ先の家風に合わせるように仕向けていた節があり、
男兄弟に対してほど、厳しさは無かったようである。
父の持つ反骨の血脈は、損得を無視したものであった。
戦後の窮乏の時代、政府からの配給のみの食料品だけで暮して栄養失調を体験し九死に一生を得ている。
腹を空かせた子供を前に、背に腹は替えられず、母が買い出しに行くのを見てみぬ振りをしていた。
そんな時でも、食事時や3時のおやつ時間時は他所へ遊びに行くことは禁じられていた。
行くだけで物欲しそうなそぶりに見られるからだそうだ。
乞食根性を持つなと厳しく戒められた。
子供に富裕栄達を望む一方、一代の浮沈など取るに足らぬと言っていた。
父が77歳のとき記録として残した遺稿の中には、
私から見て祖祖父の武勇伝から、祖父の一代記、父の若かりし頃の思い出が詳細に記録されている。
その記録を読むと反骨の血脈が私から息子にまで流れている事が分かる。
しかし私もそうであったが、その血脈に気付くのは自分が親となり子育てに苦労してからである。
子に託す親の思いが何処にあるか?・・・人それぞれに異なる命題である。
父は頭脳的にも社会的地位も私より優れ、祖父、祖祖父はそれを凌駕する名誉を手にしていた。
冬に火鉢の脇に椅子を置き、股火で暖を取る父の姿は、高木の木の枝にとまる鷹に見えた。
私が父を越えられた唯一つの事例は、子育てだけである。
父の教えに反骨で答えた我が身を振り返り、子育てした結果である。
息子が反骨の血脈を継続し、これから新婚生活に向かう。
父の残した遺稿は、息子が読む気になったとき、何れ息子に渡す。
コーヒーを入れたよ~との妻の声で、今日はこれまで・・・。