旧企救郡には主に二市一郡新四国
霊場と小倉南区南部の三谷新四国
霊場の二つの異なる系統の新四国
霊場が存在していました。数少ない
文献資料によると二市一郡新四国
が明治26年の発足で三谷新四国は
昭和2年の発足というところまでは
わかっていました。三谷新四国に
ついては昭和52年に50周年の
記念行事が行われていますがその後
昭和60年過ぎから平成の初めごろに
解散した模様です。私は長く二つの
新四国は後からできた三谷新四国が
どこかのタイミングで(太平洋戦争後?)
二つの新四国は合体したものと勘違
いしていました。というのも三谷地区
には二市一郡のお堂が多く存在し
まれに旧三谷新四国を示す古い木
の看板と白いプラスチックの看板が
かけられたお堂が多いからです。
ごく最近になって北方の真言宗の
お寺の寶明院のご住職、別府師から
寶明院が三谷新四国霊場の本部
であったこと、昭和の終わりごろに
その活動が終了したことなどをお聞
きしました。かつては三谷新四国も
千人参りが行なわれていたことは
北九州大学の社会学教室の卒業生、
野嵜女史の卒業論文で知っており
ましたが、その内容は春に二市一郡
新四国で秋に三谷新四国の巡礼が
行われていたとありましたので、てっ
きり二つの新四国は合体したものと
思い込んでいました。三谷四国の
霊場場所などは現ご住職もご存じ
ないようでしたが、二市一郡と
三谷新四国の関係性が明確にな
ったのは収穫でした。
小倉南区の北方にある寶明院ですがご住職の別府師にお話を伺うことが出来
いくつか疑問点が解消されました。