二市一郡新四国霊場とは旧門司市と

旧小倉市(主に現在の小倉北区)と企

救郡(ほぼ現在の小倉南区)の三地区

にまたがる四国八十八か所霊場のうつ

し霊場としてのミニお遍路です。
<北九州市の新四国霊場>
北九州市内の新四国霊場は若松の「島郷

新四国」、八幡西、東両区と戸畑の「帆柱

新四国」そして二市一郡新四国の三つが

あります。そのほかにも福岡県内各地に

新四国霊場がありますが特に篠栗八十

八か所は歴史も古く今も盛んに巡礼され

ています。北九州の霊場は「島郷」と「帆

柱」は今も巡礼者が多くお遍路コースと

しても成立していますが「二市一郡」は

7.8年前に「千人参り」など大師講として

の活動は絶えています。

二市一郡新四国霊場の東谷の霊場につ

いて2
 

<二市一郡新四国霊場の歴史>
二市一郡新四国霊場は元は企救新四国

霊場と呼ばれ三谷地区(当時の西谷・中

谷・東谷の各村)以外の地域で発足しま

した。時は明治25年(26年という説もあり)

一方三谷地区では明治42年夏に悪疫が

流行し多くの方がなくなりました。同年10月

に33ヶ所に観世音菩薩をお祀りするよう
霊告があり実施したところ悪疫は治まった

とのことです。その後時は移り大正末期に

至り再び悪疫が流行ったため当時の三谷

地区の熱心な真言宗系の信者を中心に大

正15年冬三谷新四国霊場創設の協議が

行われました。その後大正2年月に三谷新

四国霊場が創設され、その間には本家四

国八十八か所霊場からの「土砂引き」等

準備は進み3月に創設されました。


翌年からは春季に二市一郡新四国を秋季

 

には三谷新四国を巡礼する千人参りも始ま

 

りました。その後戦時中に一時中断するこ

 

とはありましたが2010年代前半まで巡礼

 

は続きましたがやがて千人参りなどの巡礼

 

はやがて消滅しました。今、そのあたりの

 

いきさつなどを調べていますが資料も少な

 

く難航しています。