明治三年になって廃藩置県を受け企救郡は

日田県に属し豊津藩(旧小倉藩)の配下に入

るとあります。話は変わりますが前年に発生し

た企救一揆の義民、原口九右衛門さんの裁判

が日田で行われ処刑されたのは当時の企救郡

が日田県の配下にあったためと思われます。この

項には当時の各村の村長の氏名が記されています。

明治4年豊津藩は豊津県に改称、さらに近隣の諸

県と合併し小倉県となりました。明治5年3月に庄屋

・名主排し「扱所」を置く。明治7年土地法を改正し旧

地券台帳を廃し土地台帳を作る。明治8年7月小森

手永を18大区の7小区とし、正戸長2名と副戸長2名

を置く。明治10年、戸長を一名とし、副戸長を書記と

する。明治22年市町村制発布、旧行政区画九村

(呼野、小森、市丸、木下、井手浦、新道寺、石原町、

母原、矢山(平尾台))をもって東谷村としてスタート

する。明治32年矢山を京都郡諌山村に移管する。

明治37年、38年の頃より呼野銅山を再開する。

明治41年村是をたてさらなる発展を期する。

 

 

 

 

サムネイルをクリックすると拡大版が見れます。

解説の冒頭で「明治3年の廃藩置県を受けて・・・」と書きましたが廃藩置県は明治4年なので

何かの間違いかとも思いましたが、今回はあえて原文のままに解説を書きました。日田は江戸幕府の

天領でしたが倒幕直後の慶応4年には廃藩置県令に先駆けて日田県を設置していますので、その意味で

廃藩置県としたのかもしれませんが詳細は不明です