明日のダービーの前売りを買おうと桜木町の場外に出かければ 第89回だって?
毎年買い続けてもう50年以上、当たったのは片手で数えられるくらいしかないな
”カモメは飛びながら歌を覚え、人生は遊びながら年老いていく。遊びってのは、もうひとつの人生なんだな。人生じゃ負けられないようなことでも、遊びでだったら負けることができるしね。”
劇作家の寺山修司は、JRAがまだ中央競馬会と名乗ってたころのテレビCMに出て ぼそぼそと津軽弁でつぶやいてるが、オレなんか遊びで散々負け、人生でも相当苦杯をなめてきたしな~。
”人は誰でも遊びっていう名前の劇場を持っててね、それは悲劇だったり喜劇だったり、出会いがあったり別れがあったりするんだよ。そこで人は主役になることもできるし同時に観客になることもできる。
人は誰でも二つの人生を持つことができる。遊びはそのことを教えてくれる”
寺山が「遊びについての断章」と題して中央競馬会のために書いた原稿から抜粋し、そのまた断片を朗読したものだが、これにはもう少し続きがあって
”人生が終わると、遊びも終わってしまう
しかし、遊びが終わっても人生は終わらない
遊びは何べんでも終わることができるから、何べんでもやり直しができる
出会いと別れのくり返し
そこが遊びのいいところなんだね
人生では敗けられないが、遊びなら敗けられる
そして敗けを知ったものだけが味わえる風景というものがある
「誰か故郷を思わざる」なんて唄は
競馬をやったことのある者にしか、味わうことができない唄ではないだろうか
人生が、いちばん安上がりの遊びである
死が、いちばん高くつく遊びである
遊びは、人生の時刻表である
人はそこに立ち止まり、自分の乗る汽車をえらぶ
人生は汽車である
旅をしながら年老いてゆく
遊びは不幸な人間の第二の人生である
遊びは不幸な人間の第二の魂である
人は誰でも、もう一つの人生を持つことができる
それは遊びである
ドストエフスキーは言っている
「一杯の茶のために、世界など滅びていい」
夢の中で無くしたものを
目がさめてからさがしたって見つかる訳はない
人は誰でも二つの人生をもつことができる
遊びは、そのことを教えてくれるのです”
どうみても遊びへの弁解、競馬をスったいいわけにしか聞こえないのはオレにもウシロメタイココロがあるから?
小腹がすいてラーメン食ってこうと思ったら10時開店だって。
それまで帆船日本丸のほうへブラブラ・・・
開店と同時に飛び込み「一蘭」のラーメン食べてどうか明日、当たりますように・・・