○●(オレの実名)へ
まず最初に、おまえはもう「成人」しているので、お父さんは、おまえのやることに反対することはできるが、おまえのやろうとすることを阻止することはできない。
おまえに「提案」することはできるが、「強要」することはできない。
実際に、まだおまえは20歳前だったが、大学を決める際には勝手にやったし、お父さんは結局それを取り消したりはしなかった。(大学については、親を半分たぶらかしてまでいまの大学に行き、しかも親に金を出させてもいるものを、今になって「つまりませんでした」では、基本的にはおまえ自身も本来それで済ませてはいけないはずだと思っているが)
世の中を戦場に例えるならば、我々大人は兵隊だ。
作戦を考えるやつも、それを伝えるやつも、そのための自動車を運転するやつも、そのための車を整備するやつも、そのための物資を補給するやつも、それを受け取って保管するやつも、現場で指揮をとるやつも、見張りをするやつも、歩兵で突入するやつも、銃座で機関銃を撃つやつも、ヘリコプターを操縦するやつも、傷ついたやつを手当てするやつも、そして傷ついたやつ自身も、いろいろいる。いないのはニートだけだ。
大人になる(成人する)ということは、同じおとなのひとりとして社会に参加することであり、残念ながらおまえはもう年齢としては成人して「しまっている」のだ。
だから、銃座で撃ちまくっている兵士の後ろから「なにか僕にできることはありますか? お手伝いしましょうか?」と尋ねるのではなく、おまえ自身がひとつの銃座に座り、自分も身を危険にさらしながら弾を撃たねばならない立場にすでになってしまっている、ということなのだが、それがしっかり理解されているか? 「お手伝い」ではなく、おまえもひとりの主役なのだ。敵が攻めて来たら撃ち、弾が足りなくなりそうだったら補給を要請し、持ちこたえられそうになかったら報告をし、撤退する。作戦の命令はされるかもしれないが、行動するのは自分、どう行動するのかを考えるのも自分だ。
「社会に参加する」とはどういうことか。戦争では、戦場で戦闘員として働く、ということだが、ふたつあると思う。
ひとつは、社会のひとたちのために役に立つこと。職業として、あるいは職業以外でも、社会の具体的な誰かのためになる役割を自分が担うこと、あるいはそれを職業という形で継続的にできないのであれば、なにか役に立つことをして、し続けること。これは簡単に理解できると思う。
もうひとつは、社会の仕組みを機能させるための財政を支えること。
具体的には、労働し、対価を得て、政府に税金を納めること。
それは自分(あるいは自分の扶養家族も含めた自分たち)が政府から無償で受けるサービスの量よりも多い政府への還元(税金の納付や政府サービスへの無償協力。賃金をもらってしている仕事は還元には含まれない)を行うことであり、社会のおとなひとりひとりが生涯を通じてこれを達成できない限り、われわれは、政府か企業か援助機関かにぶら下がって生きている存在になってしまうことになる。おとうさんの失業手当(もらってないが)もそうだが、これは結局おとうさん自身が会社を通じていざというときのためにかけた掛け金をいまつかうもの(年金や健康保険も同じ)だが、これが定常化すれば、おとうさんは自分の支払った掛け金よりも多くを政府からもらうことになり、その財源は「政府予算」とはいえ、結局は企業やひとさまの給料から支払われた税金を食いつぶす結果になる。だから社会人として存在するということは、もしものときのために用意した社会保障制度は自分のために活用しつつも、それを制度として受け取ることを既得権とせず、むしろ制度の費用負担者としての自覚を持ち、しっかりと政府の財政的負担に参加することだいえる。被災者に対してなにができるか、という点においては、おまえがとっとと働いて、食いつぶしを減らし、おまえ自身も政府への財源提供をできるだけ早く、多く行うことが、究極的には被災者支援への財源をより多く確保することにもつながることになる。
お父さんがなにを言おうと言わまいと、おまえは自分で考えたことを、自分でやってゆくことに、それが自分で責任のとれる範囲であるのであれば何の問題もない。
そういう意味ではお父さんは一応給料は稼いできたが、おばあちゃんに負担をかけっぱなしだから、お前にもあまりいろいろ言える義理ではない。
しかし、誰かに迷惑をかけるのであれば、その相手と納得のいく形で話し合いをもつ必要があるはずだ。
さて、メールの内容に話をもどす。
「やろうと思っても出来なかった人」は「やらなかった人」だと思う。
被災地に行けなくても、被災者に対してできることはたくさんある。
「被災地に行きたい」のなら行けない事情もあるかもしれないが、「被災者を支援したい」ならば、たとえばxxxxx(オレがネットやり過ぎて反省しろと飛ばされた国)からだってほんとうはできることはあるはず。
被災地に行きたいのか、被災者を支援したいのか、どっちなのかをちゃんと区別して考える必要があるのではないか?
それでは、xxxxxにいるから被災地に行けないのか。
お金は、日本に帰るためにバイトでもなんでもして稼ぎ、貯めればいい。
それができなければ、お母さんにでも、おじさんにでも、頭を下げて借りることだってできる。
ボランティアの募集を探したか?
そういう組織とコンタクトをとったか?
ほんとうにそういおう気持ちがあったのなら、そのためのなにかをしてきたのか?
今回お父さんが連絡をとったのは、「ぶらぶらしているくらいならできることがあるはず」と思ったからで、そっちで価値あることをしてるのであれば、災害支援は基本的にプロに任せればいい。お母さんとよく話してほしい。そっちにいながらどうしてもなにかしたいなら、できる範囲でのお金を送ったらいい。お父さんもここに来る前に、ちょっとではあるが送金してきた。
いまの現地の状況は、おまえが現場にいってパフォーマンスが足りなくても、気持ちがあるからとか、それなりに努力してるからいいというものではない。戦場と同じだ。
ほんとうにだれかを「助けるという強い気持ち」だけで働けるならよいが、被災地を「見てみたい」とか、「こういう体験をしてみたい」といった気持ちがあるのならば、これはおまえのためにある「練習」や「体験」や「教育」ではなく、被災した方々が主体の「本番」なので、勘違いのないようにしてもらいたい。そして中途半端な気持ちで来てもらうくらいならむしろ今回は、おとうさんはいっしょに来てほしくない。
それから、条件によっては一緒に行くこともやぶさかではないが、では‐‐(実家。東北では、無い)の家にこれまでなにかしてきたかといったら、これまでなんら自分からしては来なかったお前が、いきなり被災地になど行って使い物になるのかは大きな疑問以外のなにものでもない。お父さんに「連れてってもらう」的な考え方についても、成人した現在になって、もうそろそろ捨て去ったほうがいいのではないかとも思っている。そしてもしもおまえがほんとうに行って何かをしてあげたいと思うのであれば、おまえは自分自身で行って、なにかをすることだって可能であることを忘れずに。
「僕に出来る事があるならば少しでも助けに行きたい」ではなく、少ししかできないというつもりならば来なくていい、送金にしろ。
ちゃんとやる覚悟がないのなら、こどものお遊びの場所じゃないので来ないでくれ。
お父さんと一緒に行くというのであれば、一人前以上に働く覚悟を決め、それを実践することが条件だ。
もしそのつもりなら、まずは‐‐の家と隣近所でお手並みを拝見させていただきたい。
では。