こんにちは(^^)
前回は
造化三神についてお話をしました。
簡単にまとめると、
「古事記」では
天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)
高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)
神皇産霊尊(カミムスヒノミコト)
が高天原三神。
「日本書紀」では、
国常立尊(クニノトコタチノミコト)
国狭槌尊(クニノサツチノミコト)
豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)
が国土三神。
それぞれを造化三神としています。
天武天皇側勢力の民族は高天原三神を神としていたのでしょう。
というお話でした。
今回は
「古事記」と「日本書紀」が成立した時代の日本には、
「陰陽」の思想がありましたよ。
というお話をしたいです。
でも私自身は陰陽について全くわからず初心者なので簡単にですw
調べながらいきましょう。
こちらが「太極図」です。
陰陽を表しているそう。
wikiによりますと、
「陰陽説」とは古代中国の思想だそうです。
「陰陽五行説」ってなんとなく聞いたことありますよね。
ゲームとかで「青龍、朱雀、麒麟、白虎、玄武」なんて強そうなキャラがいたりしますよね笑
実はそちらは「五行」と言って、
自然現象、性質、相互作用などを概念化したものだそうです。
陰陽五行説は「陰陽」と「五行」の両方を組み合わせてより複雑なことを表せるようにしているそうです。
陰陽説は、
物事を「陰と陽」のカテゴリーに分け、万物の生成と消滅の変化はこの二気によっておこるとされています。
「変化の法則」「対立と統合」を表しているそうです。
「八卦」(はっけ、占いの易経でつかわれる8つの基本図像)も陰陽です。
八卦は古代中国の神、伏犧(ふくぎ、ふっき)が作ったとも言われています。
伏犧と女媧(ふくぎとじょか)
…男性性と女性性、手に持っている定規とコンパス。この絵も陰陽を表しているそうです。
そんなわけで、陰陽説と五行説は別なのです。
八卦のことが書かれた「易経」
五行のことが書かれた「書経」
どちらも儒教の経典にあり、内容は孔子の時代よりも古いのです。
このように
書物として紀元前500年頃にはあったそうですが、
陰陽五行を学問として成立させたのは
周の文王(姫昌、殷を滅ぼした)と
その次男の武王(姫発、周の創始者)とも言われています。
紀元前1000年頃の人物です。
その頃の日本というと、
ちょうど弥生時代なのですね。
陰陽五行説は大陸で紀元前1000年頃に成立して、
紀元前500年頃には孔子がまとめている。
弥生時代は紀元前1000年から紀元後200年代。
ちゃんと重なっています。
となると、陰陽思想は、
古くは渡来系弥生人が日本に持ってきているはずです。
海を渡って技術をもってくるということは、海を渡るほどの力を持った有識者という事ですからね。
陰陽思想は
すごーく昔から日本に入っている思想であり、
自然科学とも哲学とも言えるので、
日本の土着の信仰である
祖先信仰・自然信仰とも親和性があり受け入れられて混ざり合ったのだろうと、太郎先生も仰っておりました。
で、
陰陽思想の話に戻ります。
wikiからです。
こんな意味があるらしい。
ここで大切なのが、
「陰陽は相反して移り変わるもの」
「善悪ではない」ってこと。
両方が必要なもので、
バランスをとることで調和するのですって。
宇宙的で良いですね。
更に太郎先生によりますと、
陰陽のバランスは常に動いているので、
陰と陽を循環させる「エネルギー」があることが大切な要素なのだそうです。
それを表しているのが卍(マンジ)のマークとか巴(トモエ)
紋。
巴の尻尾が回る方向なので、上の図は右回り、下の図は左回りだそうです。
この「エネルギー」の考えかたがあると、
陰と陽を分けて分断したり、
善悪の視点でみてしまうことは違うのだな、とわかりやすくなりますね。さすが太郎先生。
南九州にいて皇族と対立していたけど、平定され服属させられた隼人族の儀式に使う盾の紋様も陰陽と循環を表しているそうです。
それにしても、
古代からこのような自然法則が理解されていたとはすごいですよね!
陰陽を
高天原三神におきかえるならば、
天御中主尊(アメノミナカヌシノミコト)は「混沌、宇宙そのもの」
高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)は「陽」、
神皇産霊尊(カミムスヒノミコト)は「陰」、
の役割ですかね。
「古事記」にはどうしても陰陽の宇宙観を取り入れたかったのかな。
なぜ
高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)が「陽」で、
神皇産霊尊(カミムスヒノミコト)が「陰」なのかというと、
その後のストーリーの二神の働き方でわかります。
高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)は、
独神で隠れたにも関わらず再登場します。
「古事記」の「葦原中国の平定」です。
高天原のトップとしてアマテラスと共に登場するのです。
地上をどうやって取ろうかなって。
「…ここにタカミムスビノカミ、アマテラスオオミカミの命もちて…」と。
タカミムスビが先で、アマテラスが後です。
そしてタカミムスビの子神、オモイカネに指令をだします。オモイカネは神々を動かします。
次の場面も同じく
「…ここをもちてタカミムスビノカミ、アマテラスオオミカミ、また諸々の神等に問ひたまひしく…」
とタカミムスビが先に書かれています。
更に次は、
「…故ここにアマテラスオオミカミ、タカミムスビノカミ、また諸々の…」
ここで順番が入れ替わります。
物語としては、
高天原から雉の神を地上に使いに出す場面です。
雉は地上のアメノワカヒコに弓で射られ、矢は高天原の二神に届きます。
「…雉の胸より通りて、逆まに射上がりて、天の安の河の河原に坐すアマテラスオオミカミ、高木神(タカギノカミ)の御所にいたりき…」
ここで、タカミムスビノカミが高木神(タカギノカミ)に名称が変わります。後はこの名で登場します。
これ以降は並び順も、二神で登場する時はアマテラスの後に書かれるようになります。
この後高木神(タカギノカミ)は
地上に向けて矢を射るのですが、
注釈によりますと
高木神(タカギノカミ)とは、
「高い樹木を依代として降下する神の意」だそうです。
「産巣日(ムスヒ)」は生成の霊力なので、
地上に直接関わる時に、それに相応しい名称になったようです。
「高木神社」はこちらのお名前から来ているのですね。
このように、
命令を出すこと、
地上に直接介入することは、
男性的で「陽」のカテゴリーなのかな、と思います。
木、というのも棒なので男性的ですね。
(陰陽の象徴として棒が男性で皿が女性)
神産巣日神(カミムスヒノカミ)も、
「天照大御神と須佐之男命」で再登場します。
高天原を追放されたスサノオが、
大気都比売神(オオゲツヒメノカミ)を殺してその身体から穀物の種が生まれた時に、
カミムスビはスサノオに種を集めさせます。
(「日本書紀」では月夜見尊(ツクヨミノミコト)が、
保食神(ウケモチノカミ)を殺しその身体から生まれた食べ物をアマテラスが集めさせます。)
「大国主神」にも登場します。
大穴牟遅神(オオナムチノカミ=オオクニヌシ)が兄達に殺された時です。
オオナムチノカミの母の願いを聞いてカミムスビは蚶貝比売命(キサガイヒメノミコト)と蛤貝比売命(ウムガイヒメノミコト)を遣し生きかえらせます。
食物に関わること、
命を助けること、
名前も「産巣日(ムスヒ)」のままだし、
女性的で「陰」のカテゴリーなのかなって思います。
陰陽思想、
とっても大切みたいです。
カミムスビは
スサノオとオオナムチという出雲神に関わることから、
出雲国に関係の深い神とも言われています。
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順番の話もします。
アマテラスとタカミムスビの順番が途中で入れ替わりましたよね。
どちらも偉い存在なのでどちらが先でも良い、って事は無いと思います。
アマテラスを日本の最高神としたのですから、
いつでもアマテラスが先で良いと思います。
それを最初だけはタカミムスビを先にして、
途中で変えている、というのは、
「国の最高神はアマテラスだけど、本当に偉い祖神はタカミムスビですよ。」のメッセージのように受け取ってしまいますよ。
「天孫降臨」で地上の王になる邇邇芸命(ニニギノミコト)も、
天孫=「アマテラスの孫」だから正統な王である、とのことなのですが、系譜でみるとニニギはタカミムスビの孫でもありますし、本当はタカミムスビの方が大切だったのかなって思ってしまいます。
系図を書いてみました。
教科書的には、
『アマテラスはそもそも男神だったのが、
「古事記」成立時の元明天皇、もしくは天武天皇の妻の持統天皇が女性であったために女神とした。』
という説があります。
『しかし「古事記」成立頃の社会が男系社会であったために、アマテラスという女神の後に男神であるタカミムスビが必要であった。』
という感じの事も書いてありました。
どのような理由があってタカミムスビを立てているのでしょうね。気になります。
こちらは太郎先生情報なのですが、
九州にはタカミムスビが御祭神の神社がたくさんあるそうです。
…そうしたら当時九州でタカミムスビを祀っていたその民族が力を持っていたからその民族を気遣わないといけなかったとか、そもそも天武天皇系の民族がタカミムスビを信仰していたとか、、。
妄想がひろがってしまいますね。
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そんな感じで色々調べてみましたが
陰陽の話に戻りましょう。
伝説も含めた陰陽のルーツを時系列に並べてみます。
陰陽は
中国の創造神の伏犧(ふくぎ)が易をつくる。
↓
紀元前1000年頃の周の王が完成させる。
(稲作と共に日本にも伝わる?)
↓
紀元前500年頃経典として孔子によりまとめられる。
↓
↓
紀元後500年頃百済から五経博士(五経を教学する学官)が来日。
↓
602(推古10)年、百済の観勒が来日して聖徳太子らに陰陽五行説を講じる。
↓
607(推古15)年、遣隋使の派遣
↓
676年(天武4)年、自らも占術を行う天武天皇が陰陽寮・占星台を設ける
↓
718(養老2)年、役所として陰陽寮設置
↓
735(聖武7)年、吉備真備が遣唐使から戻り多くの書を持ち帰る。
↓
838年、遣唐使終わる。
参考までに陰陽師の有名人も上げます。
土御門の祖、安倍晴明(921〜1005年)。
蘆屋道満(958〜?年)。
どちらも遣唐使が終わった後の人物ですね。
ちなみに平安時代は784〜1198年です。
安倍晴明の陰陽道は
陰陽五行説を日本に合わせて発展させたものでしょうから
天武天皇の時代の陰陽とは違う形だったのでしょうね。
天武天皇の時代であっても
すでに更に古い形の陰陽説が日本には根付いていたと想像できるので、
日本の陰陽五行説は波状に大陸から情報を受け取りながら、
秘伝として知識を守りながらも、形を変えていったのではないかと想像します。
土御門家の方は今もいらっしゃるそうなので、
紀元前1000年からつながる知識を守っていらっしゃると思うと、尊敬の念しかうかばないですね。
陰陽の考え方は、
他にも記紀の様々な所や、
神社の神様の祀り方などにも現れています。
また機会があればお話したいです。
お付き合いいただきありがとうございます(^^)











