ソーシャルビジネスCSR見聞録

ソーシャルビジネスCSR見聞録

社会事業促進家としての大成をこころざす男の日々の体験や思考を、徒然なるままにつづります。日本や世界の社会セクターにかかわる諸問題、ソーシャルアントレプレナー・社会起業家の活躍、企業のCSR活動などがおもな関心テーマ。

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本日は、社会貢献への取り組みと「お金」の関係について、考えてみました。

よく、社会貢献のことについて「そういうことは、ビルゲイツみたいに、稼ぐだけ稼いでからやるもんだろ」というような趣旨のことがいわれたりします。

わたしも、以前だったら多分、上記のような考え方をしていたほうだったかもしれません。

確かに、お金がないと出来ないこと、というのは沢山あります。
先立つものがないと、、ってやつです。

ただ、上記のような発言は「お金さえあれば、なんでもできる」との考え方がその裏にあるのではないかな、という気がします。

実際そうでしょうか?

お金があれば、なんでもできるでしょうか?

お金さえあれば、社会問題が解決できてしまうでしょうか?

これは、ちがいますよね。

例えばいままで、これまで国民から国に支払われてきた多額の税金や、社会セクターにあつまった巨額にのぼる寄付金などが、社会問題の解決に対して有効に、効果的、効率的に使われてきているか?

実際には、社会問題解決のためにあつまったはずの資金が、当事者以外のコンサルタントへの支払いや、開発機関の調査費用などの名目で費やされてしまう。

そして、肝心の支援先には、お金がなかなかまわらない、

そんなことは、日常茶飯事で起こっているといわれています。

つまり、お金だけがあってもだめ。

うまく運用できないと意味がないってことですね。

確かに、事業をする上で、お金は血液のように重要。

ただし、お金はあくまで条件でしかない。

お金は、それがなければ事業がまわらない、持続しない、という意味で必要条件ではあるが、十分条件ではない。

社会問題の解決において、まず重要になるのは、社会問題解決への強烈な動機、専門的な知見、周りをまきこむリーダーシップなどの類のものであるのではないかと思います。

田坂広志さんは、社会問題解決に重要な資本を、5つのソーシャルキャピタル「ナレッジ、リレーション、ブランド、トラスト、カルチャー」と表現されていたと思います。

世の中の流れは、ますます「心の時代」ともいわれるものにシフトしてきています。

モノ、金、中心の世の中から、次のフェーズにシフトしてきている。

そこでは、目に見えない精神や心の問題こそが重要になっている。

岡田斗司夫さんは、著書「評価経済社会」で、このことをわかりやすくまとめておられます。

http://amazon.co.jp/dp/4478015880

昨年読んだ本のなかで、とくにわたしがインスパイアされた本なのですが、その一部を以下に引用します。

以下、引用
ーーー

人々のニーズをつかみ、もっとも効率よくそれを生産して販売することによって、多くの富を得られるのが、貨幣経済競争社会。

それに対し、人々の不安や不満をつかみ、最も効率よくそれを解消する方法を提案することによって、尊敬と称賛を得られるのが、評価経済競争社会。

得られる利益は貨幣的利潤ではなく、評価利潤、つまりイメージである。これが「評価経済社会」の定義です。

SONYは金融資本を、さらなる儲け、すなわち金融資本の獲得に使ったのです。そして金融資本すら獲得できないでいます。

これに対してAppleは、評価資本で稼いだ金融資本を、イメージ・評価に投資しました。つまり資金をさらなる評価資本の獲得のためにつぎ込んだということです。

その結果、APPLEは斬新なアイテムとイメージを売るブランドとして今も君臨し、同時にボロ儲けもしているわけです。

評価で儲けたお金でお金をふやそうとして、お金も得られず評価も失ったSONY。

評価で儲けたお金をさらに評価獲得につぎ込んで、評価をお金の両方を得たApple。

これらは、前に説明した「評価は貨幣に優先する」の最たる実例ともいえるでしょう。

ーーー
引用ここまで。

ITインフラが発達するいま、人々から共感(岡田さんがいうところの評価)を得ることに成功しさえすれば、「お金」はついてくる、お金の調達はより容易になっていくのだろう、そんな気がします。

また営利事業においても、実はお金は費用にすぎない。

ドラッガーは「利益とは、事業にとって費用であり、目的たりえない、利潤動機には意味がない」といっています。

営利と非営利の融合を考える際にも、このことを考えないといけない。

営利企業のもつリソースのうち「お金」にのみ注目してしまうと、結局は助成金とか寄付とか協賛とか、そういう発想にしかならないわけで、

もっと事業のコアな部分、企業がもつ「顧客の創造能力」つまり、「マーケティング」と「イノベーション」の部分を、どう社会問題にむすびつけるか

このことが、やはり、より重要になってくる、と考えています。
最近、ちょっとTEDにはまっています。スピーチの動画サイトですが、これを空き時間に見るのが楽しみです。

i-phoneアプリをダウンロードしておいたのを、しばらく放置していたのですが、移動中にひまつぶしにチェックしてみたところ、動画はサクサク動くし、なんせ面白い!

なかでも私が特に感動したのは、ブレネー・ブラウンさんの「恥について考えましょう」というスピーチ。

↓オススメ
http://bit.ly/Lw0lzU via #TEDiSUB

とにかく、話がわかりやすくてユーモアもあって面白いし、その上、ものすごい勇気づけられジーンときてしまうという、一粒で二度、三度と美味しいスピーチ、とってもおすすめです!

さて、このブレネーさんは「恥」について研究している方だそうでスピーチのなかで「恥」そのものについてを説明してくれています。

特に興味をひかれたのが「恥」について、よく似た「罪悪感」との対比で説明している部分。

以下のような内容でした。

■「恥」

私がわるい、私みたいな人間は問題です、という思考。

依存症、うつ、暴力、攻撃性、いじめ、自殺、摂食障害など、実にさまざまなメンタル問題との相関性が高い。


■「罪悪感」

私がわるいことをした、私の間違いです、というような思考。

こちらの場合、恥から生まれるようなメンタル問題とは逆相関する。誤った行為や失敗した行いを意識し、ありたい姿と比較して振り返る能力は、その居心地はわるくとも驚くほど適応力が高い。

引用ここまで

つまり「罪悪感」は、自分が行った行為にたいするものであり、

それに対して、「恥」は、自分自身にたいするものになっています。

「自分自身」と、自分が行った失敗の「行為」とは、切り離して考えるべきだということなんですよね。

なるほどと思いました。

そして、このことは自分自身のみではなく、他者に対する見方や捉え方に関しても、同じようにいえることではないかと思います。

自分と自分自身との関係性と、自分と他者との関係性は、鏡のようにリンクしているという「鏡の法則」が存在するからです。

他者に対しても、その人自身と、その人がおかした失敗行為とは切り離してとらえるべき。

つまり「罪をにくんで人を憎まず」であるべきだということです。

しかし、たとえばマスコミで流れてくるニュースは、そのほとんどが、「誰がよい」「誰がわるい」というふうになりがち。

よいときは、もう意味もなくヨイショしまくる、それが少しでも状況がわるくなると、今度はとたんに誹謗中傷しこきおろしまくる、

よくあるパターンですよね。

まあ、私もそんなに偉そうなことはいえません。行為でなく人を責めてしまうことはよくありますから。

ただ、なぜそうなってしまうのか?

まず第一に、「誰がわるい」っていうのは、発言するにあたり、あまりアタマをつかわないし、つかわないですむ。言いっぱなしにできる。

感情的なゴシップになっておわりだから、低レベルだけどラクちんなのだと思います。

それに対して「なにがわるい」という発言をするときには、「じゃあ、お前はどうすればいいと思うんだ?」ということが文脈的には必然的に発生します。

意見に責任が問われ、自分が矢面にたつリスクが増える。

ただ、みんなが誰かのせいにしてラクしてしまうと、みんながそこで思考停止してしまう。

そのために建設的な意見がでないというのは、これからのご時世においては、なんともまずい。

一時的なカタルシスのあとには、中傷したほうもされたほうも、不満だけが残る。

人間は、基本的に安きに流れるものだし、ゴシップ記事はあってもいいけど、それはあくまでひまつぶしの娯楽でしかない、そのように思いました。



プロボノの支援先NPOの活動を体験するために参加したボランティアごみ拾いのことを思い返しているのですが、

川辺に集まった200人以上の人々は、5つぐらいのグループにわかれて担当エリアに移動します。

エリアに移動したあと、さらに5名から6名のメンバーからなる小規模の班にわかれます。

川辺を移動しながら、各班が、俺たち大体ここら辺だね、っていう感じにきめてごみ拾いにうつりました。

ごみを種別毎に数え集計をしながら拾っていくスタイルであり、これをきちっとやらないと「ちゃんとやってね」と、注意されることになります。

我々が担当することになったエリアは、中心に大きな草むらがあり、その奥に大量のごみがつまっていました。

また、草むらのまわりにもパラパラとごみが落ちている、そんな状況。

そこでごみ拾いをすすめるなかで、面白いことに、自然と以下のような役割分担が生まれていました。

◎チャレンジャー1名
草むらを奥に分け入って奥からごみを掻き出してくる人

◎ピックアッパー2名
まわりのごみを拾いながら、チャレンジャーの拾ったごみをも指定の場所にあつめてくる人

◎セパレーター1名
指定の場所に集められたごみを種別を告げながら、燃えるゴミ用の袋、燃えないゴミ用の袋、ペットボトル用の袋、カン用の袋、それぞれに、ごみを仕分けしながらいれる人

◎カウンター1名
セパレーターのカウントの掛け声に応え、復唱しながら集計票に記入する役割の人(体力的にはもっともラクなポジション)

(各ポジションの名称は、私がいま勝手に命名しました笑)

こんな風に、誰がきめたわけでもないのに、自然と各々が自分の役割をみつけて動いたことにより、

円滑に、かつ大量にごみが集まって達成感を味わうことができたのです。

なんともいい具合なチームプレイだったよな、と思っています。


ところで、いまの経済環境においては、事業の成長サイクル、S字カーブがどんどん短くスピードアップしています。

そして、変化の速度にあわせ、企業は戦略をつねに見直して、柔軟に変えていく必要性にせまられている。

いまの経済環境というのは例えていえば、ゴミを拾うべきエリアが、地形が、ごみの種類や量が、次々に変化しているような状況といえます。

ドラッカーは、「組織構造や個々の職務の設計は、課題中心に行わなければならない、一方で、実際の仕事の割り当ては、人と状況に合わせて行わなければならない」といっていますが、

いまは戦略の変化にともない、上記でいうところの「課題」がすぐに変化していくわけなんですよね。

ということは、あるべき組織構造や、個々の職務の設計もかわるし、そこで働く人一人ひとりの仕事の割り当ても変わっていく。

組織構造については、今後は上記のゴミ拾い活動に近いような、チーム組織が、事業活動において中心になっていく気がします。

なぜならば、変化に対応して戦略をスピーディーに変えることができるし、課題にあわせた個々の職務設計や、一人ひとりの役割分担も柔軟におこなえるからです。

ごみ拾いでも、担当エリアの地形の広さや形状が違えば、必要とされるポジションも、各々が果たす役割も、上記とは違うものになっただろう、と実感できるのですが、

チームでゴミ拾いなら自然とできた職務設計や役割分担も、企業の事業活動となるとそう簡単ではないかもしれません。

この職務設計や役割分担を決めるというのは、おそらく事業システム化するということの重要な一部だろうと思うのですが、

組織がチーム型の場合、各メンバーが各々の適材適所を考えて、課題やチームの状況にあわせ、自分の仕事を自分でデザインできないといけないことになります。

チームメンバーとしてのより強い主体性や、周りを見て自分の適材適所を判断する相対性を持ち、仕事をつくる。

ここら辺のことが、今後、知的労働者により要求されることになるのではないでしょうか。