こんばんは。Yuです

 

ご無沙汰しております。またもや更新を一か月近くサボってしまいました。

最近気づいたら移住から早2か月近くが経過しようとしています。

すっかり石川県民になじんで・・・はまだおりません。もちろんたくさん努力はしていますが(笑)

今日はその努力について、ここ最近気になっていることを綴りたいかなと思います。

 

いきなり意味深のタイトル!誰に?と思うでしょう、普通なら(笑)

別に女性に振られたとか、親友に裏切られたとか、そんな話では全くありません。

 

「この街を」愛しているけど、「この街に」愛されてはいない・・・

正確には、希望的観測を交えて「まだ」愛されてはいない、というのが正しいでしょうか。

でも気落ちしていることには変わりませんね(笑)そう、何があったのかというと・・・

 

体育館や陸上競技場、武道場などありとあらゆる体育施設が自宅から歩いて5分という好立地にあるため、夕方から夜にかけて色々な年代の色々なスポーツ、活動を見学させてもらっています。やはり子供たちに触れるのはとてもいいですね!素直で曲がったところがない、と表面的に大人が美しい絵をそこに勝手に描いているというのも半分はあるのでしょうが、全力で取り組み終わったら一列にそろって礼、終わるという姿は見ていてとても清々しく、私も見習わなければと毎日気づかされます。

 

ですが最近少し困ったことがあり、「保護者の方ですか?」「指導者の方ですか?」と引率の先生や指導者からちらほら聞かれるようになりました。まあ、額面通り私は誰なのかを聞いているのではなくて「関係無いなら出ていけ」というのを古い世代の京都の人間のように(笑)きわめて遠回しに伝えているのです。まあ「出ていけ」というのは少し大げさですが、よく見かける人だがやはり私が何者なのかよくわからない(から不安)、というのはなんとなくわかります。

 

教育委員会からのお達しが、こんな小さな町の(と言ったら失礼か、スミマセン)未成年者の教育現場にも行き届いているのだなあと思うのと同時に、やはり日本全国津々浦々、ご両親がご子息を思う気持ちは変わらないのだなというのを当たり前ですが強く感じ、私も思い当って反省することは多々あります。

 

移住して最初に感じる壁が、「独身であること」の意味が私の想像以上に色々なことを意味しているということ。これは東京では何も問題にはならない(少なくとも生きていく上で、私自身の人間性や能力的な評価と何の関連もない)ことだと思っていたことが、ここでは大いに関係がある、という事実。

 

「保護者の方ですか?」とおそらく悪気なく相手は聞いているとは思いますが、やはり「こんな時間に、独り身の人間が何やっとんねん?」と私には聞こえてしまう。別に体育館で生徒の部活を見学することそれ自体は、保護者や指導者だけの特権行為ではないはず、だからその人が「保護者/指導者であるかどうか」は究極何の関係もないはず。だったら「関係者以外お断り」の張り紙をすればいい、入り口で私の身分証明書なりなんなり調べればいい、それだけのことなのでは?

 

しかし(敢えて言ってしまうと)田舎はそういう理屈が時として(というか往々にして)ただの屁理屈にしかとらえられない、最悪「だから独り身・よそ者は訳が分からんことばかりほざく。めんどくさい。付き合いたくない」と毛嫌いされ、村八分にされてしまうことすらある(幸いまだないですがね(笑))。

 

そうなると、究極「教育」とは何なのだろう?とふと思ってしまいます。本質を突き詰めて考え、いいことは良いし悪いことは悪い、という結論を得る(ための思考力を得る)のが教育なのではないでしょうか?大人に都合のいいことばかり教えるのが教育の目的でしょうか?

 

ただ自分で言っておいて一つ良く考えておかなければならないことは、「問答無用」で教えるべきこともある。それが「躾」や「礼節」といったことでしょう。人に会ったら挨拶をする、施しを受けたら感謝する、他人に迷惑はかけない、これらは有無を言わさず身につけるべきことです。だから教育のうち「躾」にかかわる部分まで私は否定しませんし、むしろ徹底して身につけさせるべきだと考えています(剣道教室や武道の習い事なんて、その最たるもののはず)。

 

ところがたちが悪いのは、この「躾」の部分が本来子供が自律的に考え、成長していくために必要な「教育」の部分を大なり小なり蝕んでいることなのかもしれません。体育系の部活で良くありがちな「恫喝コーチ」「根性練習」「スパルタ指導」なんてその最たるものでしょう。もっとも、教え方は各指導者ごとに様々であっていいし、またそうであるべきだし、怒鳴りつけるコーチが必ずしも悪いとは言いません。あくまでそれは生徒との相性だと思っていますが、問題はそれが「教育」なのか「躾」なのかが往々にしてごっちゃになりがちであるということ。

 

とてつもなく大きな問いかけにはなりますが、教育が目指すものとは何でしょうか?もちろん回答は指導者の数だけあるはずですが、私の理想は福沢諭吉の「独立自尊」です。もしくは孔子の「一身独立して、一国独立す」の教えでしょうか。つまり「物事をきちんと考えられる個人」を育成することだと考えています。まあ、あくまで「理想」でしかないのですが。

 

剣道教室の終わる直前、指導者への礼とともに、掲げてある日本国旗への礼も行う。私は移住当初から今に至るまで、これが物凄く違和感のある行為だなと常々思っています。極端な話、なんだか戦前の日本からこの町は何も変わっていないのでは?と思ってしまうのは、まだ私の頭が都会の頭ままだからでしょうか?

 

時と場所はかなり飛ぶのですが、1998年のサッカーワールドカップでフランスが優勝した時、国民戦線(極右政党)の当時の党首・J-Mルペンは「開会式でフランス国歌もまともに歌えない人間(フランス出身ではない外国移民)がいる」という、とんでもなく的外れなコメント(批判)をしました。それに対するフランスチーム主将は「チームの皆が皆の(一人ひとりの母国の)国歌を、心の中で歌うのだ。歌っていないわけではない」と後日返した、というエピソードを本で読んだことがありますが、私の気持ちもこのフランスチーム主将と全く同じ意見・気持ちです。

 

この町を愛し、この国を愛するということは私も彼らも何も変わりません。留学もし、海外の友達もたくさんおり、彼らがこぞって日本に来たい、日本はいい国だ、日本人は本当に親切だというコメントをもうらうからこそ(たとえお世辞だったとしても)、彼らのためにその期待を裏切ってはいけないし、彼らに恥じないよう良い市民、良い日本人であろう、彼らがいつ日本に来ても彼らが変わらず日本や日本人を好きでいてくれるよう、愛してくれるよう、そう願いながら私も彼らのそういう思いに恥じないように日々生きよう、そう思っています。

 

ただ逆説ではありますが、そうした気持ちは自発的に個人の中に芽生えるものではあっても、押し付けるもの、強制するものではない。自分の生まれ育った町や国を愛することは全く良いことだけれども、誰かが「好きになりなさい」「感謝しなさい」「愛しなさい」と言える類のものはない(はず)。愛する自由も、愛さない自由も、ひとしくあるべきです。そして自分がそのどちらを選択するのか、それを各自が各自の頭で考え、結論を出し、選択する。その一つ一つの選択という「点」が幾重にも重なって「線」(つまり人生)となっていく。どういう「線」が最終的に描かれるのかはその人次第だとしても、教育はその「点」をいかにつないで「線」にするのか、それを助けることしかできないし、してはいけない。その人以外の誰かが、点と点を勝手に結び付けて訳の分からない線を引いてしまってはいけない。

 

躾が一つ一つの点をくっきりと描くことにあるとすれば、教育はその点と点をいかに結びつけるかを「自分で考えること」にあるのであって、大人が子供の手をとって無理やりに線を引かせるようなことは本来するべきではない。しかし教育の現場は、悲しいかないまだに躾を教えるレベルにあるものも少なくないのではないか、と思います。もう「点」はすでに描かれているのに、その点を消しゴムで消して新しい点を無理やり書かせようとしたり、丸の点を三角形や四角形に書かせなおさせてそれが「点」だと教え込ませたり、一体何なのだろうと思うことも少なくありません。

 

話をそろそろ戻しましょうか。

 

私はこの街を愛し、この街のために私なりに何事かをなしたい、そう素朴に思っています。それが私なりのこの街の、この地域の「愛し方」だと思っています。それは保護者であるのか否か、指導者であるのか否かを問わないはずです。しかしこの街は「保護者ではない」「指導者ではない」私を、愛してくれてはいない。堂々巡りになるのでもうここいらでやめますが最後に一句。

 

片想いちょっと切ない秋の暮れ

 

おあとがよろしいようで

Yu