キリストの語る愛は、その愛によって「永遠の命」とか「救い」に光があたって照らし出されているように思う。(実際のキリストの意図がそれだったかはわからないけれど)
一方で、ダイジの語る愛には、死のにおいと深い悲しみが含まれていると感じる。
ダイジが愛にはじめて目覚めたのは、精神的に全くの闇の中にいた若い頃。
ダイジがテレビのキリスト教の殉教を描いた番組を何気なくみていたときに、「それでも、私は神を愛する」というセリフの「愛」という言葉が、ダイジの心に異様な程響いた。
それと同時に、「人間は絶対的に救われない、人間のみではない、一切万物は絶対的に救われないのだ」という胸がつき破れるような悲しみがダイジの中に浮かび上がった。
ダイジは、その絶対的ともいえる苦痛と悲しみの中で、はじめて万物万象を包む愛が開かれたという。
それは、信じられぬほどの愛であり歓喜だったという。
(ニルヴァーナのプロセスとテクニック p122~より)
キリストの語る愛は、実のところはアガペーであり、それを単に「愛」と表現するのはふさわしくない。
同じく、ダイジが語る愛は、言葉にすることが出来ないものなのだろうが、あえてダイジが「愛」という言葉をつかっているのは、この時の経験があったからなのではないかなと思う。
ダイジの言葉にひかれる人は、たぶんその人の心の深いところにある悲しみが、ダイジの悲しみと感応しているんだ。
ダイジの究極的な悲しみが、引力をもって僕らの中心を低いところ低いところへと引き付ける。
まるで水が低きに流れるように。
その引力に逆らわず悲しみのどん底にまで至れれば。
ダイジと同じ愛を理解できるだろう。
そんな気がする。