28歳のとき、長男が生まれた。
その3か月後、ほっこり亭JUGEMという名で
人前で落語を披露することを始めた。
当時村長をしていた「浪漫村」の夜な夜なの宴会での余興がきっかけで、笑いを取る快感にハマっていったのだ。
すぐに友人が温泉施設で落語会を企画してくれた。
小さな町ではあるが、なぜか町のお偉いさん方が集まるような一大イベントだった。

「時そば」をやったと思う。始めて数か月の初高座、きっとひどい出来だったのだろう。
全くウケず、一人で冷汗だか何だかわからない汗をかいた高座の上。


あれから8年が経ち、我流で落語をやり続けてきた。


落語というのは本来、師匠の下に弟子入りして前座修行を積み、それから人前で少しづつ経験を積んでいくものらしい。
そういうものだと、一応知ってはいたのだが、お客さんが笑ってくれれば、楽しんでくれればそれで良いんじゃね~か?と考えた。
これは最近になって知ったことだが、実際アマチュアで落語をやる方は全国にたくさんいて、すごく上手だったり、オリジナリティあふれるネタを作ったりしている。
「社会人落語日本一決定戦」という大会が大阪で年に一度行われているほど。
独学で落語を演ること、それ自体は悪いことじゃないらしい。

30歳。JUGEM CARAVANと銘打ち、ISUZUのキャンピングカーに2歳の長男と、生後2か月の次男とを乗せ、日本全国を回る。
飲食店やらコミュニティスペースやらで、投げ銭落語会を企画してはやり続けた。
大小さまざまな飲食店やゲストハウス、フェス等で落語を演る。
経験はないが勢いがあった、、22都道府県で演った。
当時協力していただいた席亭(オーガナイザー)の方々には今でも感謝の念が尽きない。
当時の私にとってはプロとかアマとかの概念もない。
それこそ「浪漫村」で企画しては、ライブに来てくれた、多くのミュージシャン達の影響が大きい。
彼らは生きていく術としての音楽。私は生きていく術としての落語。
そんなキャラバンもコロナ化とともに終焉を迎える。

北海道の浪漫村へ帰ることになる。
小さな町で少しづつ道楽で落語を嗜む仲間が増えて
「ほっこり亭一門会」みたいなのもやった。
各々、楽しみながら落語に取り組む、良い時間だった。
旅から帰ってきたのを機に、ほっこり亭を解散しようと決めた。
勝手に始めて勝手に解散するのだから気ままなものだ。。
妻子は一足先に北海道へ、私はひとり岐阜愛知での出稼ぎ。
その経験から、ほっこり亭としての最後のの落語は「子は春日井」だった。
人情噺「子は鎹」の改作。
働いていた愛知県の春日井市を舞台に、クスリをやめた不良の男が
別れた嫁と元鞘に戻るというストーリー。ほとんど実写版だった気がする。


それから高座名は亭号を廃し「JUGEM」となった。


・・・話は遡る。
17歳で高校を親に相談もなく勝手に辞め、
18歳になりソッコーでタトゥー(刺青)を入れた。
自分の力で生きていける気がしていた。
20歳は六本木夜の街で迎えた。
某有名クラブ。爆音の箱の裏口からいつもヒルズの最上階を睨んでた。 
25歳 GIANTの自転車を買い、旅に出た。「日本列島チャリ栗毛
このブログはそのころに始めた。
決して反社会的ではないが、脱社会的ではあったと思う。


・・・弟子入り志願の話に戻ろう。

 


「JUGEM」となった32歳。
北海道から落語立川流のD師匠へ弟子入り志願へ行った。
国立演芸場で入り待ちをして土下座した。
その夜ホームぺージから履歴書を送るとすぐに返信をいただいた。
「30歳以上の弟子は取れない」との返答で
落語芸術協会は、35歳までと聞き及んでいるが、と添えてあった。

33歳 北海道の「浪漫村」から出て
四国一周を家族で歩いて回る。「四国一周歩く旅
その縁で愛媛の山に暮らし、1年半が経った。
今年に入り、毎週火曜日の火曜寄席で落語に取り組む。
35歳まで、というD師匠の言葉がよぎる。
今しかない。

もうひとつ年を取ってしまう前に、もう一度志願しに行こう!

 

36歳になるまであと二週間と迫った日。

東京へ飛んだ。

 

つづく