もしかして、、

このような仕組みでは?

私たちはそれぞれこの世に降りてきた目的とか使命があり、

それを幼い頃からただただ歩んでいくまっすぐなブレない人というのはごくごく稀で、大体どこかで大きく脱線する。

そして、その時私たちには、

お前の道、あんまりにもずれ過ぎやねんヨイショーと、豪快な力が働いて、とっとと気づけよこのバカが!という事件が起きる。

その時には私たちは、この世で1番不幸なのは私…的な気持ちになるが、後になってみればそれがあったからこそ、的な気づきを得る。

しかし、そこでずっと不幸に浸ってると、その大きな力は、

あれ?そっちに変えるの?そうなの?

でも、やっぱりこっちじゃない?と突いてくる。

それでも変えない、というのを恐らく続けたら、なんというか、上書きみたいにされて、目的とか使命とかなくなるのかもしれない。だって本人がそれで良しならば。

一方、いや、ちゃうんや、しかし、やってまうんや、不幸ぐせが、貧乏ぐせが、不安症が、、となりながらも出された課題を乗り越えていくと、本筋に戻れる。

だから、まずは、自分自身を思い出すことが多くの人にとって必要となる。

思い出し、怖くても、少しずつ向き合って、課題に真正面から向き合っていくと、そのうち

不安がっている暇はなくなったり、お金がないからと言って諦められない、私がどうしてもやりたい、と思うくらいの状況になってくる。

私、今このような状況やと思うねんね、自分が。

前は多分もう少し暇で、いやいや、私ごときが、、お金が足りなくなったら困るし、ということを思う暇があった。今、ないねん。

やる?やらん?やらんなら他の人がそれやるけど。または、誰もやらなくてもったいないことになるけど。これ今だけど?

いや、いや、それ私やりたい。とサインしてる。

よくよく考えたら、その課題は越えられないと思うから越えられないだけで、もしかしたら人に頼めばすぐ越えられるのに、意地を張って一人で越えよう、誰にもバレないようにと思うから越えられないのかもしれない。

だから、最近越えたい時は、おまえ、、恥ずかしさとかないんかい?カッコ悪いとか言われても良いんかい?ということも平気でやる。いや、言いすぎた…平気ではない。しかしやりたいが勝つからやる。

今日も大きな不安が、向こうが見えないような波を自分で作り出したけど、いや、待てよ。そこで、ただ不安になってるだけで何もしなければ、

あら?そうなの?そっちでいくの?の上書き人生になるで。

やってみなはれ。

多分、大丈夫。

今日、息子が私立の入試で、不得意な英語の長文問題のトピックが得意のギリシャ神話だったと。すごく嬉しそうに帰ってきた。

私も、そんな風にラッキーやと思ってみよう。あんなラッキーな人のお母さんやし。

多分、大丈夫。

しかも、案外私のビッグウェーブの何倍ものウェーブを越えている人は考えただけでも山ほどいる。

人にはそれぞれに越えられる波しかこない。

そう思うか、思わないか。

では、書いてないでやることやろうかww