じゃあ、家は要らないということに焦点を当てて、その理由を考えてそれにふさわしい理屈があるとする。
納得するとする。
しかし、次に、じゃあ、車は必要でない理由はなんなのか。
こんどはそれを考える。車が必要じゃない理由は先に話したものである。
だいたい、利便性に加えて、エコ問題もある。
じゃあ、自転車か、といえば、本当に自転車すら必要なのか、自転車を買うこと、製造させることもエコではないはずである。
使わずに済む方法もあるのではないか。
ちょっと話が広がってしまったが、場所にふさわしい生活というのは考えてみれば、なにかしらあるはずである。
そうかんがえれば、墓はどうなのであろうか。
死だから、例外である、とすることはかえって実生活を苦しめる。
死だって、生活の一部で、なんのストレスもなくスムーズに実生活にもどれるように単なる一イベントとして片付けられるべきである。
結局、どんな悲しみでも、それを乗り越えて、もとのように生きていかなくてはいけなくなるのである。
墓守というものは、地方で近くに墓があり、近くに親族が暮らしている、寺に属しているといったことが基本形である。
それから、どの条件も、地方である、親族がいる、寺がある、いずれもはずれてはいけない。
その条件がはずれたときに、墓守というものは荷物になる。ある意味がずれてしまう。ただの負担になっていくのである。
墓を守ること、それは苦労ではないか。
代々の墓を守るということは苦労である。兄弟がいれば、長男の務めとなり、弟はその義務を負わない。
弟の墓を作るか作らないかはそのときの代で決めることができる。
長男ならば、墓を守っていき、自分もその代々の墓にはいることにもなる。
その長男の嫁は嫁の実家の墓に入ることなく、長男の嫁としてまた、その墓にはいっていくのであろう。
だったら、嫁が長女の一人っ子だったら、その嫁の実家の墓はどの代で、廃れてしまうのではないか。
最近は少子化で必ずその家が守られるということはない。
出生率が2もないので、どちらか、どこかの墓は廃れてしまう。
その廃れて廃れてしまった墓はいつか、その土地が返却され、没収されという風になり、結局はなくなってしまうのである。
だれも、タダで守ってはいかない。
ならば、なくなっていくことは、決してバチあたりなどではなく、自然の流れである。自然の流れならば、思い切って自分でなくしてしまえばいい。
親族の結束が固く、墓を中心に考えている世帯、地域は問題ないが、そうではない場合、そのなくす方法を知る良しもないので選択肢としてもなく、公にされていないために触れてはいけないような問題としてただ現実からなくなっているようになっている。
もし、堂々とこういった話が議論されれば、間違いなく、そのなくしてしまう方法が望まれ、法にふれなければとか、社会が許せばなどといった制約をうけなければ是非に、という話にもなる。
法には触れることはない。
埋葬する方法が定められていて、埋葬をしなければ、特に規制はない。ただ、一番のネックは周りの人間関係である。
変わったことをした場合に、冷たいとか、感情的なものを周りがどう受け止めるか、望まないような雰囲気ができたときに、それによって自分の生活が乱されないか、とか想像外のわかりえないことにばかり気を取られるがゆえに、踏み出せないで入るのである。
それは、そういうことをしたら・・・明確な事例もない場合は、当たり障りないように、といった事なかれ主義に流されるといったことが、この大切な瞬間にも適用されて、死者に対しての感情なども実はなにもなく、自分を守る保身において行動されてしまう。
散骨といったことも、タダ単に骨を細かく砕いて適当なところへ撒く、海などに流してしまう、といったことなのだが、その手間を惜しんだり、ある程度の出費は仕方がないとか、法事のときだけ我慢すればいいとか、そのときにしか顔を合わせない親族などにうまく合わせていくといったことをするのに器用にふるまおうとする。
でも、実際はそれもしたくはない。
そういった態度を子供たちが見ていれば、なんのための葬儀なのか、墓なのか、まったく間違った教育にもなっている。
それが面倒だと思うので子供達には自分は散骨にしてくれればいい、などと無責任なことだけを言って、実際、自分でできもしないこと、無理難題を残していくのである。
だから、いつまでたっても、生活しやすく、生きやすくなっていかないのである。
ある一点、まず家族がうまくいくこと、一番小さな社会の単位、一番大事にしなくてはいけない場所、そこにいる者を守っていこうとしなければ、何の意味もない。外の世界を変えようとしても家族に対しては弱いとか、それでは、中身がなく、偽りである。
目をそむける、最終的には誰もが考えなくてはいけないこと、現在では後回しにされていること、それをまず考え、準備しておけば、元気でいられる。
自信をもてる。
そのために散骨という方法を選択肢として用意し、むしろ筆頭にして準備できるようにしなくてはいけない。
最後にお金をかける、そのために、積み立てをするという生活ではなく、元気で生きているときに本当に生き生きできるようにするには、葬式のための、いざというときの貯金ではない。散骨という風にし、託す人たちにその旨をよく話しておけば、具体的な砕く方法も気持ちの整理の仕方も、話すことができれば、今、欲しいものに貯金を回し、生きていくための老後の蓄えだけを考え、無駄な貯金すらしない。
だから、お金が回り、経済も安定する。
経済を安定させるのにはいろいろな手段やアプローチの仕方がある。
散骨できる、ということで最後の最後の見えない想像し難いものに対しての準備を軽減し、生きている世界、経済界、社会を活性化させる、という方法もある。
これは、いま、この段階で国や社会が動かなくても、まず、個人の考え方、家族の中、その大切な最小社会の考え方を健全化することですぐにもやもやから脱するということができるのである。
そして、自分ではない、親にもはなしをし、死んでしまってからはわからない、だから、もう散骨にしよう、と思い切っていってしまうこと、そういった話をオープンにしていこう。
まず、自分のことを散骨にするのではなく、自分が散骨という行為をしてみよう。自らが変わって、考え、実行しなくては何も変化しないのだから。
納得するとする。
しかし、次に、じゃあ、車は必要でない理由はなんなのか。
こんどはそれを考える。車が必要じゃない理由は先に話したものである。
だいたい、利便性に加えて、エコ問題もある。
じゃあ、自転車か、といえば、本当に自転車すら必要なのか、自転車を買うこと、製造させることもエコではないはずである。
使わずに済む方法もあるのではないか。
ちょっと話が広がってしまったが、場所にふさわしい生活というのは考えてみれば、なにかしらあるはずである。
そうかんがえれば、墓はどうなのであろうか。
死だから、例外である、とすることはかえって実生活を苦しめる。
死だって、生活の一部で、なんのストレスもなくスムーズに実生活にもどれるように単なる一イベントとして片付けられるべきである。
結局、どんな悲しみでも、それを乗り越えて、もとのように生きていかなくてはいけなくなるのである。
墓守というものは、地方で近くに墓があり、近くに親族が暮らしている、寺に属しているといったことが基本形である。
それから、どの条件も、地方である、親族がいる、寺がある、いずれもはずれてはいけない。
その条件がはずれたときに、墓守というものは荷物になる。ある意味がずれてしまう。ただの負担になっていくのである。
墓を守ること、それは苦労ではないか。
代々の墓を守るということは苦労である。兄弟がいれば、長男の務めとなり、弟はその義務を負わない。
弟の墓を作るか作らないかはそのときの代で決めることができる。
長男ならば、墓を守っていき、自分もその代々の墓にはいることにもなる。
その長男の嫁は嫁の実家の墓に入ることなく、長男の嫁としてまた、その墓にはいっていくのであろう。
だったら、嫁が長女の一人っ子だったら、その嫁の実家の墓はどの代で、廃れてしまうのではないか。
最近は少子化で必ずその家が守られるということはない。
出生率が2もないので、どちらか、どこかの墓は廃れてしまう。
その廃れて廃れてしまった墓はいつか、その土地が返却され、没収されという風になり、結局はなくなってしまうのである。
だれも、タダで守ってはいかない。
ならば、なくなっていくことは、決してバチあたりなどではなく、自然の流れである。自然の流れならば、思い切って自分でなくしてしまえばいい。
親族の結束が固く、墓を中心に考えている世帯、地域は問題ないが、そうではない場合、そのなくす方法を知る良しもないので選択肢としてもなく、公にされていないために触れてはいけないような問題としてただ現実からなくなっているようになっている。
もし、堂々とこういった話が議論されれば、間違いなく、そのなくしてしまう方法が望まれ、法にふれなければとか、社会が許せばなどといった制約をうけなければ是非に、という話にもなる。
法には触れることはない。
埋葬する方法が定められていて、埋葬をしなければ、特に規制はない。ただ、一番のネックは周りの人間関係である。
変わったことをした場合に、冷たいとか、感情的なものを周りがどう受け止めるか、望まないような雰囲気ができたときに、それによって自分の生活が乱されないか、とか想像外のわかりえないことにばかり気を取られるがゆえに、踏み出せないで入るのである。
それは、そういうことをしたら・・・明確な事例もない場合は、当たり障りないように、といった事なかれ主義に流されるといったことが、この大切な瞬間にも適用されて、死者に対しての感情なども実はなにもなく、自分を守る保身において行動されてしまう。
散骨といったことも、タダ単に骨を細かく砕いて適当なところへ撒く、海などに流してしまう、といったことなのだが、その手間を惜しんだり、ある程度の出費は仕方がないとか、法事のときだけ我慢すればいいとか、そのときにしか顔を合わせない親族などにうまく合わせていくといったことをするのに器用にふるまおうとする。
でも、実際はそれもしたくはない。
そういった態度を子供たちが見ていれば、なんのための葬儀なのか、墓なのか、まったく間違った教育にもなっている。
それが面倒だと思うので子供達には自分は散骨にしてくれればいい、などと無責任なことだけを言って、実際、自分でできもしないこと、無理難題を残していくのである。
だから、いつまでたっても、生活しやすく、生きやすくなっていかないのである。
ある一点、まず家族がうまくいくこと、一番小さな社会の単位、一番大事にしなくてはいけない場所、そこにいる者を守っていこうとしなければ、何の意味もない。外の世界を変えようとしても家族に対しては弱いとか、それでは、中身がなく、偽りである。
目をそむける、最終的には誰もが考えなくてはいけないこと、現在では後回しにされていること、それをまず考え、準備しておけば、元気でいられる。
自信をもてる。
そのために散骨という方法を選択肢として用意し、むしろ筆頭にして準備できるようにしなくてはいけない。
最後にお金をかける、そのために、積み立てをするという生活ではなく、元気で生きているときに本当に生き生きできるようにするには、葬式のための、いざというときの貯金ではない。散骨という風にし、託す人たちにその旨をよく話しておけば、具体的な砕く方法も気持ちの整理の仕方も、話すことができれば、今、欲しいものに貯金を回し、生きていくための老後の蓄えだけを考え、無駄な貯金すらしない。
だから、お金が回り、経済も安定する。
経済を安定させるのにはいろいろな手段やアプローチの仕方がある。
散骨できる、ということで最後の最後の見えない想像し難いものに対しての準備を軽減し、生きている世界、経済界、社会を活性化させる、という方法もある。
これは、いま、この段階で国や社会が動かなくても、まず、個人の考え方、家族の中、その大切な最小社会の考え方を健全化することですぐにもやもやから脱するということができるのである。
そして、自分ではない、親にもはなしをし、死んでしまってからはわからない、だから、もう散骨にしよう、と思い切っていってしまうこと、そういった話をオープンにしていこう。
まず、自分のことを散骨にするのではなく、自分が散骨という行為をしてみよう。自らが変わって、考え、実行しなくては何も変化しないのだから。