どうもご機嫌よろしう。
お運び,ありがたく感謝いたします。
えー,今回のブログは三日前から書こうと思っていて,ついつい遅くなっちまったものです。
どうズボラで申し訳ございません。
前回はフォークソング「花はどこへ行った」の代表的な邦訳について勝手に戯けさせていただきました。
ちょっと他の邦訳も調べて見ましょう。
私がネットで見つけた邦訳には加藤登紀子さんの訳と故忌野清志郎さんの訳が
ありました。
お二方とも,私と同じように一般的に知られている邦訳は反戦メッセージが弱まってしまっている事に不満をお持ちになってご自分で翻訳に踏み切られたんじゃないでしょうかな。
両方ともかなり反戦ムードは高まっています。
特に加藤登紀子さんの翻訳はご本人の思い入れもたっぷり入っていて…
それはそれで素晴らしい訳だと思いますが,ちょっと盛り過ぎな感も否めない気がするんですな。
一方,忌野清志郎さんの訳は全編,恋人を失った少女の目線で描かれています。
どちらも名訳で間違いありませんが…
いずれも本歌の,あくまでも第三者視線で,淡々と戦争を繰り返す人間の愚かさを嘆くムードとは違う気がするんですよね。
というのが,私が訳詞を試みた理由ですが…
いや,くだくだしかった事ぁ,自分だってわかってまさあ。
そこはそれ,世に名訳と言って良い訳詞が数ある中,ド素人のあたくしが割り込もうっていうんですから,それなりに言い訳が必要な事も思し召しいただきたいってなモンです。
花はどこへ行った
訳詞:多陽亭里漫
野に咲く花はどこへ行った
遠い昔さ,去りし日
野に咲く花は娘たちがもぎ去った
世界は変わるか
変われるだろうか
乙女たちはどこへ行った
遠い昔さ,去りし日
乙女たちは彼氏のもとへ
世界は変わるか
変われるだろうか
若人(わこうど)たちはどこへ行った
遠い昔さ,去りし日
若人(わこうど)たちは戦場へ出てく
世界は変わるか
変われるだろうか
軍人たちはどこへ行った
遠い昔さ,去りし日
軍人たちは墓場に眠る
我々は変わるか
変われるだろうか
墓場の石はどこへ行った
遠い昔さ,去りし日
墓場の石は花咲く野辺に
我々は変わるか
変われるだろうか
野に咲く花はどこへ行った
遠い昔さ,去りし日
野に咲く花は娘たちがもぎ去った
我々は変わるか
いつの日にか
どうもご機嫌よろしう。
お運び,ありがたく感謝いたします。
えー,今日も60年代のフォークソングのお話…それもまたまた反戦歌の話でございます。
いーえ,あたしゃ決して今も若い頃もそんな熱心な反戦活動家だったという訳じゃござんせんよ!
でもダメですな…あたしみたいに歳をとるてぇと…気がつくと,もう若い頃の事ばかり思い出してるんですよ。
今日は皆さんも,お若い方々も,多分ご案内の「花はどこへ行った」です。
この歌もジョーン・バエズ版が定番となっておりますが,彼女はカバーしただけです。
尤も前回の「クンバーヤ」も完全に彼女のオリジナルという訳ではござんせんが…
「花はどこへ行った」はニュー・フォークソング界の最長老とも言うべきピート・シーガーの歌です。
正確に言うと,ピート・シーガーの作曲で作詞はピート・シーガーとジョー・ヒッカーソンの合作だそうでございます(英語版Wikipediaで調べました)。
日本でも数々の歌手がカバーしていて日本語への訳詞も異なるバージョンがいくつか存在してございます。
その中でも一般的なのはデューク・エイセス,ザ・ピーナッツ,園まりが歌っている訳詞でしょうな。
みんな,ほぼ共通の詩でございます。
でも,あたしゃ,どうもこの訳詞が気に喰わない。
そもそも「花はどこへ行った」てぇのは反戦ソングでございます。
ところが,この日本語訳では,すっかりその反戦ムードが弱められちまってる。
むしろ解釈のしようでは戦争と戦士を美化した歌にすら聞こえます。
そもそも第一番から…
「野に咲く花は,少女の胸に
そっとやさしく抱かれる」
という歌詞がございますが,これ,皆さん,どういう印象をお持ちになられます?
あたしにゃあ,どうも少女らしい…美しいものを愛する乙女チックなかわいらしい情景をイメージしちゃうんでがすよね。
この箇所は,英語では…
英語でもジョーン・バエズやPPMなんかの歌う
“Young girls picked them everyone”の方が一般的ではありますが…
ピート・シーガーの原曲を聴いてみるとちょっと違う。
ピート・シーガーの歌う歌詞では
“The girls have plucked them everyone”
になっているんです。
この“pluck”という単語は“pick”と意味は同じだが,ニュアンスがちょっと違います。
“pluck”の方がもっと手荒いというか乱暴なイメージがあるんですよね。
「むしり取る」というイメージ…
現に「ニワトリの羽毛をむしり取る」なんて言うときに
“pluck the feather off the chicken”なんていう風に使います。
要するにピート・シーガーの本歌では,少女たちの行為をそんな美しいものとはとらえず
むしろ自然に生きている草花をむしり取って行ったと言う非難が察せられる文なんですよ。
(邦訳ではあたかも一人の少女の行いのように聞こえますが,本歌では複数の匿名の少女たちの行いである事にも注意してください。)
はっきり言って,これじゃあシーガーさんも浮かばれない事ではないかと思うんです。
そこで,これもあたくし,独自訳を試みてみました。
しかし今回はもう長くなりますので,次回,ご披露してみたいと思います。
どうぞよろしくお願い申しあげます。
来年、定年退職を迎えるにあたって、また何か残しておきたくなりました。
ブログのタイトルも変えて一新発起したいと思います。
題しまして「多陽亭里漫の理も漫(そぞ)ろ」
どうぞよろしくお願いいたします。
あたしがまだガキンチョの頃、世界的大スターだった歌手の一人にジョーン・バエズという姐御がいました。
今でも活躍してらっしゃるようですが、すっかり良いおばあちゃん…
ま、あたしより歳上ですからな。
世界を席巻してた頃の彼女はまだ若い美人…
日本でもイットキ流行った裸足の歌姫の走りの一人と言っても良いでしょう。
この人の裸足は筋金入り…何しろステージの上だけではなく
ジャングルの奥地だろうが焼け付く砂漠だろうが
私生活でもほとんど靴は履きませんでしたから
そんな彼女の持ち歌の一つに「クンバーヤ」という歌がありました。
これがベトナム戦争当時のヒッピーたちの間で偉く流行った
「クンバーヤ」というのはアフリカのどこぞの言葉で「平和を与え給え」という意味だそうです。
今、ロシアがウクライナに侵入し
ミャンマーで内戦が酷くなっている時代…
またタイムリーなんじゃないかと思い、自分なりに訳詞してみました。
どうぞお目汚しください。
Joan Baez のクンバーヤ
(邦訳:多陽亭里漫)
クンバーヤ、主よ、クンバーヤ
クンバーヤ、主よ、クンバーヤ
クンバーヤ、主よ、クンバーヤ
あゝ主よ、クンバーヤ
誰かが歌う
誰かが歌う
誰かが歌う
あゝ主よ、クンバーヤ
祈りの歌を
祈りの歌を
祈りの歌を
あゝ主よ、クンバーヤ
涙の祈り
涙の祈り
涙の祈り
あゝ主よ、クンバーヤ
クンバーヤ、主よ、クンバーヤ
クンバーヤ、主よ、クンバーヤ
クンバーヤ、主よ、クンバーヤ
あゝ主よ、クンバーヤ
あたしゃ,決して口幅ったい事を言えるようなもンじゃないが…
でもね,どうもあたしの見るに多くの日本人は個人主義ってものを勘違いしているんじゃないかと思うんですよ。
多くの日本人が個人主義ってのは
「自分の事だけ考えて,他人の事はどうでも良いと考える事」
って思ってるんじゃないですか。
そりゃ個人主義じゃありません!
そういうのは利己主義と言うんです。全く別物です。
そもそも個人主義に対立した言葉と言えば本来は家族主義ですね。
でも現在の日本の場合,そんなに家族の絆が強ぇかてえとあたしゃちょっと疑わしい気がする。
そこであたしは個人主義の対立語として「団体主義」という語を提唱したい。
個人よりも,その個人が所属する団体を優先する生き方ですな。
この「団体」てえのが,例えば家族だったり…
あるいは集落だったり,藩だったり,会社だったり,政党だったり,国家だったりするわけです。
個人主義と団体主義を分ける本当の違いは何かというと,ある個人の利害とその個人が所属する団体全体の利害が対立したとき,どちらを優先するかという事です。
団体の利を優先させて,そのためには個々の人物が犠牲になってもやむを得ないというのが団体主義。
対して,いやいや,団体の利が損なったとしても個人が不条理な被害を受ける事はまかりならんというのが個人主義です。
本当の個人主義というのは一つの基本的な鉄則があるんです。それは
「自分が己の個人的権利を主張するように,
自分も他人の個人的権利を尊重し守らなくてはならない」
って事です。
この前半だけを主張して後半を無視するのが利己主義…
欧米は個人主義って言いますが,利己主義の文化なんてありゃしません。
いや歴史を見れば時にはあったかもしれないが,そんな文明は長続きせず滅びちまうでしょう。
火災のとき,我がちに出口にかたまって身動きできなくなる暴徒みたいなもんですからね!
良く欧米人は日本人より寄付を多くするなんて言いますが,あたしゃあれも個人主義の影響だと思う。
ここに困っている個人があれば,団体が分かち合ってその個人的人権を保護しなくてはいけないという思想が発動するわけですね。
日本が長らく障害者対策が遅れていたのも,障害者が困るのは少数の個人の問題…社会一般が彼らを助けるために損害を被ってはならないという思想が働いていたからでしょう。
日本人てえのは本来,情の深い民族ですからね。
障害者が困るのをかわいそうと思う気持ちは欧米人にだって負けてないはずです。
でも「かわいそうだが困るのは彼一人の問題…彼のために税金を使うのは日本全体の損害だからダメ」という事になっちゃう訳ですね。
安倍首相の憲法改正構想が「個々の人権が保障されるのは国益に反さない時に限る」なんて唄っているのも団体主義の最たるものでしょう。
この場合,国家主義という団体主義ね。
欧米がなぜ個人主義に寄っているかてえと,あたしゃこりゃあやっぱりキリスト教の影響だと思います。
ご存じの方もいらっしゃるでしょうが,イエスの属したユダヤ社会というなぁ日本以上に家族主義の社会なんです。
それに反発したのがイエスなんですね。
というのは旧約聖書にもその影が見えますが,団体主義ってぇのはどうしても自分の所属する団体と対立した団体と敵対する事になる傾向がある。
「あなたがたも聞いているとおり(昔の人は)『隣人を愛し,敵を憎め』と命じられている」(マタイによる福音書5・43)
という通りです。
イエスが提唱したのはいわゆる博愛主義です。
「しかし,わたしは言っておく。敵を愛し…なさい」(同5・44)
そうなると家族を特別視する主義は崩壊します。
現にイエスの頭がおかしくなったと聞いて母親と親戚たちが会いに来ると
「わたしの母とは誰か。わたしの兄弟とは誰か」
…弟子たちの方を指さして言われた。
「見なさい。ここにわたしの母,わたしの兄弟がいる。
だれでも[神]の御心を行う人が,わたしの兄弟,姉妹,また母である」
(同12・48~50)
と言って,これを退けます。
また
「父を葬りに行かせてください」
という弟子には
「死んでいる者たちに,自分たちの死者を葬らせなさい」
(同8・21~22)
と促します。
こういうイエスの一見,家族軽視にも見えるところが伝統的ユダヤ人たちをしてイエスを排斥した今ひとつの原因になっているのです。
もちろん団体主義にもそれなりの良いところはあります。
例えば戦後日本がかくも短期間に繁栄をとりもどし,世界に冠たる経済大国になれたのは正に団体主義のたまものでしょう。
もっと大事な事…ユダヤ人たちがかくも長い間,国家を失っていたにも拘わらず,あんなに立派にユダヤ文化・ユダヤ文明を維持できたのも,彼らの部族主義が決して無関係じゃあないと思いますね。
でもね,世界がグローバライズされる今,日本人も
*個人主義の出発点は他人を愛することにある(アガペー)
という事を知り,本当の個人主義を再評価するべきじゃないかと思うんですよ。
もちろん似て異なるものである利己主義は強く退けなきゃあなりませんが…
最近,贔屓にしている某グラビア・アイドルがいます。
名は明かしません。
あのォー…
決して私が66歳にもなり,大学教授という身分でグラドル狂いしている訳ではありませんから…
仕事の合間にYouTubeで偶然発見してファンになっただけです。
グラビア雑誌だってせいぜい月に7,8冊しか買ってませんから!
(多過ぎるかな???)
彼女は天然のHカップが売りなんですが私個人は,彼女の最大の魅力は彼女の美しい眼だと思っています。
そりゃまあ,あたしだって男ですから彼女の胸元についつい見とれてしまう事がないとは言いませんが,そのくらい魅力的な眼だと思し召しください。
何か感じからして,ある程度「良い」家にそだったんじゃないかという雰囲気です…私の憶測に過ぎませんが。
高校生の頃の写真を見ると,いかにも真面目な体育会系女子だったらしく,
素直そうな顔をして真面目に制服を着こなしています。
ところが…これは彼女ご自身の弁によりますが…高校を出る頃に反抗期に入り…
恐らくはご両親は大学進学を望んでらしたんじゃないかと想像しますが…
セミ家出をしてニート生活に入っていた時期があるそうです。
その後,俳優志望をされるらしいですが芸能界が95cmHカップの胸に注目しない訳がありません。
女優ではなくグラドルへの道へと進んでしまうんですね。
あたしはグラドルがいけないって言う訳じゃありません。
あたしの信仰上から言ってAVは売春行為の変形に過ぎず,絶対いけないと思いますが
グラビアは健康な青年…
と66歳にして独り者の老人…
なら誰でも持つ需要に供給しているだけで
青年たちの欲求のはけ口になり,より大きな過ちから守ってくれる安全弁のような社会益も成していると思います。
しかし,デビュー当時に所属していた芸能プロは阿漕な所だったらしく
彼女が望む以上にエロな衣装を着せられ
望む以上にエロなポージングをさせられたようです。
ちなみに現在の彼女は盛んに当時のイメージビデオは見てもらいたくないと告知しています。
あたしはファンとしては本人が望まないものは見ちゃいけないと思いつつ…
かつ見るなと言われれば言われるほど見てみたい衝動にもかられ…
さながら『鶴の恩返し』の猟師はこんな気分だったんだろうとわかるような心持ちです。
彼女は自殺まで考えたようです。
幸い現在はより健全なプロダクションに移籍でき,最近,彼女でも許せる範囲のイメージDVDを発売しました。
あたし,これ買って見てみたんですが,これでさえ66歳のクリスチャンの老人には十分すぎるほど刺激が強いです。
でもとてもきれいに彼女が撮られていて,イスラムでもない限り許容範囲のエロでしょう。
ところが今度は,初期のファンが物足りなくてブーイングするんじゃないかと心配したと言うんです。
思うに,彼女はあの太平洋より深い双眼の奥で思い悩みすぎる性格なんじゃないかと思います。
親友のグラドルも,彼女が「家に帰ると死にたくなる」と言っていたと明かしています。
まあ関西人というのは,どうも「死にたい」とか「死なにゃあかん」とか
「死」という言葉を軽々しく使う傾向にあるし
彼女は御尊父をとても愛しておられるようなので,その御尊父を悲しませるような事は決してなさらないと思いますが…
ファンとしては心配ですよね。
私は長年…もうそろそろ定年を迎えます…大学で教えてきましたが,
「親に言われたから…」,「友達がみな行くから…」
などの理由で大学進学して人生の四年間を…場合によっては五年間,六年間を!…
無駄に過ごす学生が多すぎると思います。
逆に30過ぎてから大学に入り楽しい学生生活の後,学位をとり立派にその後の人生に役立てている人もいます。
後者がまだまだ少ないのが日本の残念なところです。
高校で社会に出て…あるいはやさぐれてニートしててでも良いですよ…
30過ぎて,40過ぎてからでも大学に帰りやすいような社会になれば日本はもっともっと発展するのではないかと思います。
だから親御さんも大学に行くように良いと私は思うんですよね。
もう一つ,この歳になって言える事は
人生,自殺を考えるほど思い悩む必要はありません。
そりゃ,あたしだって若い頃には自殺したくなった事,何度もありますよ。
あたしが学生時代,父が家に帰らなくなってしまい,
母がストレスから頭がおかしくなり
兄は遠くにいたのでしたくても協力できず
私一人で母を介護し,学校にも通えなくなり苦労した事があります。
自殺したくなったどころか自殺未遂した事すらあります。
でもね今になって思うと,そんな事はみんな,みんな,うたかたの夢…
40年なんてホントにアッという間に過ぎ去ってしまって
気がつきゃ自殺なんかしなくても,もうじきお迎えが来ようって歳だ!
聖書にこんな言葉があります。
「だから言っておく。[自分のことで]思い悩むな。
…
空の鳥をよく見なさい。
種も蒔かず,刈り入れもせず,倉に収めもしない。
だが,あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。
あなた方は鳥より価値あるものではないか。
…
天の父は(あなたが何を必要としているか)ご存じである。
だから,明日のことまで思い悩むな。
明日のことは明日自らが思い悩む。
その日の苦労は,その日だけで十分である」
(新共同訳マタイ6・25-34)
これはね,聖書の中であたしが一番好きな聖句なんです。
これは本当だと堅く信じますね。
あたしも前述したような状況で,何度大学が続けられない,
何度,数学なんて辞めなきゃならないと思ったか数え切れない。
でも,その度に何かが開けて今のあたしがいるわけです。
本当に神様の思し召しだと私は思わずにいられません。
無神論者はそりゃ偶然の幸運だろうというでしょう。
でも今,振り返って見ると
あまりに多くの外的な出来事が一つの方向性に向けて私を導いてくれたと思うんです。
偶然がこんなに一つの方向性に重なるなんて,あたしにゃ信じられない!
神様を信じた方がずっと自然だと思うんです。
だからね,若い人…60前の人の事です…
ホント死に急がないでください。
毎日を一生懸命生きていけば,自然に道は開けていきますから。
