波岡 淑子:ダンサー、振り付師、インストラクター

 

 

森羅万象に同化する魂の躍動

 

 

眼で、首振りで、指先から放たれるエネルギーで、観察した風や生命を再現するため、何ヶ月も鏡に向かい努力を重ね舞台へ上がる。その魂を目撃した人々は立ちすくみ、自然と溢れ出る涙に驚く。前衛舞踏と西洋の結合と言われる自然と同化した彼女独自のダンスは、幼い頃学んだ日本舞踊、モダン体操、バトンガール、セミプロにまでなったアイス・スケートの経験が根源にある。

 

 

彼女の魂は、富良野塾創設者(代表作:北の国から)で有名な倉本聡氏の魂にも響き、何年も共に創作活動に従事した。又、600年前から受け継がれている富山県高岡市、波岡大名の踊りと彼女の踊りの類似は、彼女がその子孫である事を立証する。眠る魂の歴史が目覚める如し彼女のダンスは、知らずと古き伝統に息吹を与え、多くの人々を魅了してきた。しかし、そんな彼女の魂が自由になるまでには、多くの葛藤、最愛の母の死、離婚など多くの苦難があった。

 

 

 

病の中の葛藤と愛と

 

出身地の北海道網走。入ってくる氷の音が、眠りから目ざめさせる流氷の町。氷の上が遊び場だった末っ子の彼女。病弱で活発な彼女に、父は色々な習い事をさせてくれた。末娘出産後、胸を患い病弱だった母と同様に、淑子さんも小学から中学校にかけて胸を患い、2年程休学を強いられた。学校復帰後は授業についてゆけず、テスト中の持て余す時間、答案用紙に絵を描いた。それを叱咤した担任に対し、逆に理不尽だと学校に乗り込み先生を怒鳴った父。影で見守り震え上がった記憶が残る。その父の教え「嘘はいけない。そういう目になるぞ!」は、常に淑子さんの人生の道すがら示唆し続けてくれた

 

 

 

午前1時起床

 

姉兄が大学生の時には、祖父母と両親の5人暮らし。体の弱い母の代役は中学生の淑子さんで、毎朝6時に起床し、神棚の掃除、父の歯科医院の掃除、朝食の準備をした。朝食後は食器を洗い1時間早く登校する。体操クラブ部員として、硬い体を柔軟する為だ。毎日のクラブ活動後、帰宅してから夕食を準備した。食後はぐったりだから7時には就寝。朝1時に起床し3時間勉強、そして2時間仮眠。この生活パターンが高校までの5年間も続いた。勉強と部活の両立でさえ困難なのに、家事が加わった生活は想像を絶する。友人との交流なんて夢のような話だ。そんな彼女を精神的にサポートしてくれた良き理解者の父。姉達から侮辱された鼻にコンプレックスを持っていた娘に「ユニークな良い鼻なんだよ」とポジティブに諭してくれた。

 

 

 

この世に独りぼっち・・・

 

高校卒業後、東京女子体育短期大学入学。いつ逝ってしまうか判らないからと、大学から帰省した折には、いつも愛情を込めて抱き締めてくた母。その最愛の母が20歳の時に他界。この世にポツリと一人取り残された様に、何年も泣き続けた。その後思いを心に閉じ込めて過ごした日々は、本当に辛かった。20歳で結婚した時の夫に離婚の際、気づかなかった‘白黒だけの判断をする’自分を指摘されて驚愕。自らの良し悪し全てを紙に書き出し、その中間について考え、自己変革の努力が始まった。

 

 

 

オリンピック振付師から独学へ

 

1972年の札幌冬季オリンピック開催の際には、踊りの振り付けを頼まれた。当時教えた経験のなかった彼女にとって、素人300人を指導するのは至難の業だったが、地元バレエ教室の先生の力添えも頂き大成功に終わった。この経験で自分は教えられる事を実感。その後も好きなダンスは続けていたものの、魂を揺さぶられる師にめぐり逢えず、23歳の時独学を決意。それから人や自然の観察が始まり、身の回り全てが師となった。様々な動きを繰り返しているうちに、体の仕組みが解って来た。

 

 
 

 

自殺願望の中から生まれる光

 

ダンス・スタジオ経営の一方、日刊スポーツ広告社で働き、会計から営業部長そして課長へと昇進していった。課長になっても、毎朝30分誰よりも早く出社し、コーヒーを入れて部下を迎えた彼女。部下は自分の姿を見て学ぶのだから、上司の自分も一緒になって頑張らなくては、との彼女の心は売り上げ成績にもてき面だった。しかし初めてのダンス・スタジオは経営困難。2度目の結婚が離婚に陥った時姉から、「あなたが変わらなければ何も変わらない」と指摘を受けたが自分では解っているつもり。自分の強さが相手にマイナスに働くからだと何人かに助言された。心が不安定だったこの25,6歳の頃、辛くて自殺まで考えた。鉄橋に立ってみたりするが、家族への迷惑を考えると葛藤だらけ。27歳のある夜、小樽でのダンス教室の帰り道、タクシーの中から町の光が見えてきた。様々な光の中に、一体自分の光はどれだろう?とふと思った。どうせなるなら‘太陽の光…’と思った時、人生進み続けられると感じた。

 

 

 

『郡動踊』結成

 

出世払いを誓い、姉から工面してもらった資金で札幌の中心部にスタジオをオープン。毎日自分でお絞りを洗濯し生徒のために用意した。社会のリズムが見え始めビジネスが軌道に乗ると、スタジオは5箇所に拡大。テレビや新聞でも騒がれた。毎日一人で何百人も教え、多い時は総勢1500人もの生徒を抱えた。1970年後半、遂にダンス1本の人生が始まり、年45回パフォーマンスするまでに。1981年‘郡動踊’を結成。‘土地のエネルギーから躍動へと導くダンス’との意味がある。結成から30年以上活動を続けるユニークで知恵に富んだメンバーは、互いになくてはならない大切な存在だ。1985年、写真家のKart Nebel氏と結婚。娘にも恵まれた。

 

 

 

N.Y.ハーレム、そしてドイツでの奇跡

 

1988年春にはNY 公演が実現。初めてのNY訪問の時ハーレムを訪れ驚愕。自分の知らない世界を教えてくれたハーレムでの公演を求めたが、危険だと警察は許可しない。ここまで来て簡単には引き下がれないから、夫と警官が示談中メンバーと共にダンスを開始。長い黒髪と黒のレオタード姿の日本人達の踊りを呆然と見つめる警官に加わり、次第に何百人もが集ってきた。幕開け響いていた笑い声は、いつしか静寂に変わった。閉幕が判らなかった観客に“Finish !”と叫ぶと、割れんばかりの拍手喝采。許可を拒んだ警官は、娘にも是非見せたいからと次の予定を尋ねた。他の客も同様の反応で、大成功に終わった舞台はタイムズ・スクエア前でも披露された。資金不足で不可能かと思われたドイツ公演は不思議な力で現実化。公演当日は稲妻嵐の大荒れ天候。しかし、淑子さんらが雨の中舞台に上がった途端に光が差してきた。ダンス終了後は、又、会場は雨雲に覆われた。振り返ると、このような目に見えぬ力に多々支えられて歩んできた人生に気づく彼女だ。

 

 

 

釘付け・・・鏡の向こうには着物姿の女性…?

 

若い頃急にアルバイトを辞め、気まずさゆえうつむきながら歩いた人ごみ。‘人生胸を張って堂々と生きたい’と痛感した。そして15歳の彼女はバスに乗ってきた65歳位の女性に釘付けになった。着物姿の女性は、沈黙の中に強くて優しいオーラを放ち、凛とした顔立ち。以来、その女性の顔の如く年齢を重ねたいと願い鏡を見てきた。還暦を迎えた時も鏡の向こうにあの顔を捜し、これからは穏やかに生きようと心した。

           

 

 

 

『無』が引き出す涙

 

無になることの大切さを感じた時から、公演前はダンス以外のアートを鑑賞する淑子さん。無でなければ本当の動きが出来ないからだ。苦労しないでも足が上がるようになると、努力のない動き、エネルギーが存在しない魂の抜けた踊りになってしまう。「あなたのダンスを見てると…解んないけど涙が出てくる。」と言った男性ライターは無の魂に触れたのだ。昔、北海道の山で木彫りの先生に「あなたにはグラウンドがある」と言われたのも、無の踊りから出てくる大地の安定感と力、自然との調和ゆえだろう。助言には必ず耳を澄まし、その意味と解決法を妥協無く追求する姿勢が彼女のダンスへの取り組みにも反映されている。若い頃は、暗闇を模索しながら自分探しに必死になった。自分が見えてきた時に、踊りが彼女を表現した―  常に自分に、他人に正直な様に。淑子さんの顔には、あの着物姿の女性にはない森羅万象が詰まっていると私は感じてならない。

 

 

裏エピソード

淑子さんと私の出会いは、一本の彼女の電話から。

当時書道アート展をしていたカフェにやってきた彼女が、私の作品「無」に魅かれ、どうしても言葉を交わしたかったとのこと。「女性か男性の作品かわからないその躍動に吸い込まれて・・・」と淑子さん。自分のダンスタイトル「無」も思い出しながらアートの前に佇んでいてくれたそうです。

 
作品『無』

 

 

 

20135月インタビュー