運動録 -4ページ目

幸せを運ぶ鳥。

うちの店の玄関を出ると、すぐ上の電線でツバメ達が羽を休めている。
数えてみると48羽。一昨日数えた時は35羽だった。ここひと月以上、その数は連日増える一方だ。

ツバメといえば連想されるのは幸せ。
どれほどの幸せが舞い込んでくるのかと今から心身ともに準備を怠りなく、マチ付きの財布を購入しようか、8月15日に札幌競馬場で開かれるコスモス賞で勝負をかけようかと考える。

しかし、昔話を紐解いても欲張り爺さんは結局最後は損をして終わる。
僕は謙虚に自分の土地とは関係のないツバメの汚した市道をデッキブラシで掃除し、ツバメにそっとウインクをしてみる。

栃木百名山 前白根山-白根山(38)-五色山-金精山(39)

7月14日 火曜日。
梅雨が明けたわけでもないのに、日本各地で連日30度を超える程の暑さが続いている。
ニュースではどこそこで39度を越えたとか、熱中症で屋内に暮らす人達が病院に搬送されたとか、クーラーという文明の利器が広く浸透した現在でも深刻な体調不良を招く人のことを伝えている。
そんな火曜日の休日にランニングとは、常識ある一般社会人としてあまり適した選択とは思えない。
そこで賢明な僕は日光市の白根山、関東以北最高峰の頂きを極めるべく湯元にやってきた。
 
白根山の標高は2578メートル。日光白根山、奥白根山とも称される。
今回、僕は日光市湯元スキー場から取り付き、前白根山、白根山とルートを取った後に五色沼まで一度下り、五色山、金精山をピークハントして金精トンネルに降り立ち、車道を6kmトボトボとまた湯元まで歩いて戻るという周回ルートを取った。
 

地図での計算上は休憩なしで9時間30分程度、一気に登って一気に下ってまた登り返してを繰り返すという無慈悲な長い道のりだ。
「日本百名山」にも数えられるこの白根山に一番手軽に登るルートは、群馬県側の菅沼からのルート、もしくは丸沼高原ロープウェイを使ってのピストンルートがある。しかしそれでもかなり大変なルートだ。白根山頂は岩山で、どこから登ろうと最後のアタックは両手両足を使って岩壁にしがみつくようなルートしか無い。各ルートの違いはその道程の長さと岩壁にしがみつく時間と難易度の差である。子どもでも気をつければだれでも登れるという類の山では決して無い。
どうせならと僕は(常識的な範囲で)一番難易度が高そうなルートを選んだが、それが今回の登山である。

 

時刻は午前5:30。気温は14度である。
もう一度言うが14度である。
陽が登りきらないため長い影が出来るゆるい斜面をスタート(標高1480m)。

AM5:32
中央右手に見えるのは最初の目的地、前白根山(2373m)だ。

 
 

スキー場が途切れたあたりに遭難慰霊碑(1670m)が設置されている。
ここからは本格的に登山道となり、急激に高度を上げていく。
 

AM6:00
30分経過

遭難慰霊碑(標高1670m)
 


登山道から真横を撮影。急角度なのがよく分かる。
 


AM7:18
1時間45分経過
鬱蒼とした木立の急斜面がようやく緩くなる頃、天狗平(標高2320m)に到着。
首に巻いたぐしょ濡れのタオルはもうすでに何度も絞っている。ここまで来ると「濡れてた方が涼しくていいや」くらいで気にならない。
 

ここで休憩しようかとザックを降ろしかけた時、割れるように頭が痛くなって、過去の記憶がフラッシュバックする。
映画で名探偵が真犯人のヒントを見つけて過去がフラッシュバックするとか、預言者が何かのお告げを得たとか、あれと似た感じだ。
不吉な色をした卵から不吉な何かが顔を覗かせている。ガラスが割れるようにひびの入った記憶の中に、粒子の荒いイメージが見える。
ジジッという細かい雑音の中、映像はフォーカスを前後しながら、最後はようやくしっかりとした像を結ぶ。パンドラの箱が開く。
それは見間違えようも無く、助手席に放置してあるコンビニ弁当とおにぎりのイメージだ。

気が付くと僕はいつの間にか天狗平の柔らかい草地に膝をついて空を見上げていた。気づかぬうちに涙が一筋頬を伝って草地に落ちる。
名も知らぬ野鳥が呼び合う声が聴こえる。高山に健気に咲く小さな花の間を小さな虫達が音もなく行き来している。蟻が小さな何かを咥えて、粗末でささやかな巣穴にそれを運び込もうと四苦八苦している。
今は7月、まだ早朝、ここは標高2000メートルに近い山中だ。
我に返って、焦ってザックを開く。おい、弁当!

今日は暑くなるし単独登山なので多めの給水(合計2L)を持っている。そのため大きめのザックを選んで担いできたのだが、その中はぽっかり大きく空洞が空いている。ちょうどそれはコンビニの「おかずいっぱい幕の内弁当」とおにぎり、パリパリサラダ、お茶2本が綺麗に収まるはずのスペースだ。
やはり間違いない。道中、近所で買った1500円分の食料とお茶を愛車フィット君の助手席に置いたままここに来てしまった。
芳しくない事態だ。意図的な修行を除き、白根山に食べ物を持たずにアタックしたという例は歴史を紐解いてもそうはあるまい。
ザックに括りつけたラジオからは、しつこいように今日の猛暑の予報がリピートされている。9時間の行程のなか、2リットルの水分補給だけでなんとかなるものだろうか。
しかしここでスタート地点まで戻ると、次にこの天狗平に戻ってこられるのは単純計算で4時間30分後だ。つまりここで引き返すとうことは、今日はリタイアということだ。

...悩んだ末に僕は、「休憩は無くして、ピッチを上げて登る」と決めた。昨夜ツマミとして冷奴とか残り物のシャケを食したのは深夜1時。14-15時間は何も食べないまま行動し続けるという計算だ。
見上げれば雲ひとつ無い蒼穹の空が広がっている。木々は青々と茂り、シャクナゲが満開の頃を迎えている。こんな恵まれた栃木県最高峰アタックなんてチャンスはそうはない。
もちろんここで引き返すのがベスト、どころかマストな選択なのは当然だ。
登山は常に力量の半分チョイくらいがちょうどいいことは分かっている。
しかし決めた。いつまでも助手席で燦々と直射日光を浴びている弁当を想っていても仕方ない。弁当は悔しいけれど破滅に向かって止めどない歩みを進めている。
ザックを担いで、僕もまた歩みを進める。もう弁当は振り返らない。さよなら。

 

木立が途切れ、いきなり景色が開けたと思ったら眼前に雄大な白根山が見えた。遮る物のない風が心地よく汗を吹き飛ばす。ここまで全く他人との遭遇はない。弁当について愚痴る相手も居ない。

 

AM7:40
間もなく前白根山(2373m)に登り立つ。
白根山に向かう尾根と、頂上に向かう登山道が見える。わけもなく感動する。360度、雲ひとつ無い青空の中、名も知らぬ遠くの山々が水墨画のように濃淡で表現されている。
ガイドブックでもこんなにきれいな白根山は滅多にお目にかかれない。
 
 


ザレた下りの最中、エメラルドグリーンに輝く五色沼が見える。今日はあの畔も歩く予定だ。遠いな。食料もないのにな。
 
ここから一旦高度をずいぶんと下げる。毎度毎度思うのだが、なんで山って高度を上げ下げすんのかな。


AM8:05
白根避難小屋(標高2250m)。
街っ子の僕はこういう虫がいそうなところは好きじゃないので、扉を開けもせずに登り返しに向かう。
 


地図に「急登」「危険」とある白根山の登りに差し掛かる。かなりの急傾斜で、ザレて、ガレている。お腹が空いて脳に糖分が行き渡らくて、集中力が欠けている。変によろめいたり、滑って手をついたりする度、「しっかりしっかり」と言い聞かせて歩みを進める。
 
 
 
 

振り返ると遠くに富士山が。
 

前白根山から下って、またずいぶんと高度を上げてきた。
 


いよいよ最後の露岩帯だ。どこからでも登れそうな感じがするが、頂上に辿り着ける岩はそれほど多くない。グローブを締め、遮る物のない尾根を吹き渡る風に麦わら帽子が飛ばされないようにザックに括りつけ、最後のアタックに向かう。 
 
  

最後の岩を登りつめる。頂上はもう少し。

AM9:05
山名表示板のある白根山山頂(2578m)は非常に狭い岩の上だ。
 

 
気温は20度とちょっと。風は涼しい。

少し離れたところに見晴らしが良さそうな場所があるが、あの下は崖であるのでどうせ怖くて近寄れまい。中禅寺湖と男体山、社山の尾根が見える。
へっぴり腰でやっと登ってきたここを離れてあちらに移ってみるつもりはさらさら無い。
  
  
 
隣で弁当を食べ始めた人がいるが、そこは危険地帯である。
誰しも階段に腰掛けることは出来るだろうが、一段先が絶壁のビルの屋上の端に腰掛けられる人はそうはいない。彼が座っているところはそんな所で、ひとっつも羨ましいとは思えない。
 
 
自分だけが弁当もないのに人が豪快におにぎりを頬張っているのを見ていても楽しいことは何もないので、早々に頂上を後にする。360度遮る物のない絶景、そしてこんな雲ひとつ無い頂上に登れるなんてツイていることはわかるが、ここは高くて足場も悪く危険で落ち着かない。
居心地がいいことと景色がいいことは比例しない。
北方面、弥陀ヶ池に向けて出発。湖畔にペンションが立っていて、水際で家族連れが遊んでいるのがうっすらと見える。数秒前に発せられたであろう子供の喜ぶ甲高い声が風に乗ってここまで届く。
あちらからは弁当を持たずに白根の頂きに立つこの俺が見えているか?腹の虫の音が聞こえているか?
 

頂上直下の岩場を慎重に降りてきて振り返る。よくまああんなところに登ったものだ。
 

比較的、こちらの菅沼側の方が斜度が緩いかもしれないが、それでも十分な急斜面。長いガレ道の危険度はどちらも変わらない。
 

AM10:15
ようやく斜度が緩くなった頃に弥陀ヶ池、五色沼(2170m)のほとりにたどり着く。
ほとりに立ってみるとあんなきれいなエメラルドグリーンには見えないのだが、不思議だ。
 
 

更に登り返して五色山(2379m)へ。登ったり下ったり、景色はいいけど飽きてきた。
これは身体に糖分が行き渡っていなくて、集中力を欠いているせいだと思う。つまらないところでつまずいたり滑ったりすることが多くなる。単調な苦役のように、ただ黙々と歩を進める。
だめだ、慎重に、慎重に。



200mほど標高を稼ぐと、日光の山々でよく見る笹の道になる。この辺は四季にわたって太陽が良くあたるので、乾いた道で歩きやすい。
頂上が見えそうで見えないまま、このルートで初めての高度差が無い山道を歩く。

AM10:55
五色山(2379m)頂上。
今まで歩いてきた道がぐるりと見渡せる。



そそくさと最後のピーク、金精山に向かう。金精山はここより標高が低いのだが、登山道が崩壊しているので十分注意するように、危険!などの文言を本やブログで見かける。
遠くに本日のスタート&ゴール地点である湯元温泉街が見える。


五色山を越えて北斜面に入ると、日照時間の不足から、路ががらりと変わって湿り気を帯び、苔や張り出した太い木の根、湿って滑る土、そして盛大に舞う蚊やハエなどの虫が多くなる。ヤマビルにも要注意である。口を開けて呼吸をすると虫が侵入してくるので、がしがし動きながらもなるべく鼻呼吸を心がける。


つづら折りの長い車道も見えてきた。あれを歩いて写真隅の湯ノ湖に向かう。車道歩きはつまらないし、ドライバーから「どこからどこに向かってんだ!?」というぎょっとした顔で見られるから嫌だ。


AM11:42
ジメジメとした陰湿な道を少し上り詰め、金精山(2244m)に到着。
特に景色が良いわけではないのでここも早々に立ち去る。まぁ弁当も持ってない人間が山頂でのんびりする意味もあるまい。


安全な車道にさえ降り立てばあとはひたすら歩くだけだが、ここから先の登山道はひどかった。崩壊しているというのは誇張ではなく、親切な方が掛けてくれた複数個あるハシゴやロープを頼りに慎重に降下する。下に足が届かないところも多々あり、長時間行動したハムストリングを盛大に刺激してくれる。





PM12:43 無休憩で7時間以上動いている。
急斜面を下り終えて膝が痛くなる頃に金精トンネル(1850m)に到着。

ここでこっそりパンツ一丁になって、汗だくで気持ち悪いシャツとズボン、靴下を取り替える。タオルも新しいものに変えて、ワイルドに身体を拭いて、心機一転車道歩きに専念する。ゴールまではあと6km歩くことになる。これは日頃のランニングからしてみると、どれくらいの距離なのか身体で覚えているので苦にならない。


標高1500mの車道に貝殻を発見する。1万年ほど前、この辺り一帯が海だった頃の名残である。


湯元温泉の湯畑に到着。辺り一面硫化水素臭が漂い、暑いけれど熱い湯に飛び込みたくなる。湯畑に建つこの小さな屋根の下にはこんこんと源泉が湧き出ているのだが、「顔を近づけると中毒死する」旨の立て札がそこかしこに立ててある。硫化水素は一時期流行ったあの毒ガスだ。
さぁ、ゴールは近い。


総括する。


このルートは写真撮影や景色を眺めるために歩みを止めたものを除いて、無休憩で歩いたルートである。なぜ無休憩で歩かなければならなかったのは非常に深い反省点とする。
GARMIN GPSで見ると、総移動距離は17.3km、時間にして8時間20分ほどを要している。予定よりかなり速いが、それは無休憩であったこと、そして運良くトラブルがなかったことである。
日本百名山にランクされているから当然ではあるが、ルートの案内は非常にしっかりしていて、分かれ道で迷うことは皆無である。巣穴から出てきたミーアキャットのような体勢でリボンや踏跡を探さなければならない様な場所は無い。
だからと言って道が安全かというと決してそうではない。特に白根山頂付近と金精山付近は、自分の子どもを連れてくるには少し躊躇するほどの危険箇所がある。
今回のように天気が良ければ景色は非常に素晴らしく、あとで写真をよく見ると、富士山や新潟、福島の山々までよく見渡せる絶景がそこにはある。
この山は関東以北の最高峰で、森林限界を越えた高山の雰囲気が充分に感じられる。そしてこの山は火山である。道中にはハイテクノロジーの火山計測計等が設置され、ガレ、ザレの岩場には噴石が未だ残って登山者の足を滑らせる。

菅沼から登る人は非常に多く、逆に湯元温泉から登る人は少ない。道中出会った人では、この山に魅入ってもう8度目よ、なんておばあさんもいた。
僕は栃木百名山制覇を目指していて、それが故に山頂を通り過ぎれば目的達成のようなところがあるのが自分でも気になっている。
ゆっくりとその道程を楽しみ、山登りを始めた頃のように、山と海のその仕組に、神の配剤に、思わず足を止めて魅入るようなことが少なくなっているような気がする。もちろんそんな登り方だって有りだし、否定するつもりはないけれど。

家に帰る最中、神経の緊張が緩んできた頃のいろは坂で猛烈な空腹が襲ってきた。お腹と背中がくっつくぞほどの空腹だ。運動後心拍が平常に戻る間の30分は、炭水化物とタンパク質を摂取するのに適したゴールデンタイムである。助手席に鎮座して炎天下で8時間以上経過した弁等のたぐい、これを食べて腹痛を起こした日には調理師として世間に顔向け出来ない恥ずかしい事態となるので固く持ち手を縛って我慢する。

白根山。
噂に違わぬ難易度とそれに対するご褒美を持った、素晴らしい山でした。

栃木百名山 山王帽子山-太郎山(37座目)

今週の山登りは奥日光の「太郎山」に決めた。
太郎山は父「男体山」、母「女峰山」の背中に隠れ、その標高は2,368m、裾は戦場ヶ原まで長く伸びている。
以前は山頂に向かうルートは3つ、山王峠経由、志津峠経由、そして光徳ハガタテ薙経由があったのだが、ハガタテ薙は1999年の豪雨で登山道が崩壊してしまった。このルートは久しく完全に通行止めになっていて、最近のガイドブックにはもう載っていない。

今回選んだルートは山王峠から山王帽子山を経て、小太郎山、太郎山とピストンするルートだ。地形図を見るとゆるやかな坂は見られない。スタート前から息を切らせて急登にあえぐ自分が想像できる。
朝7時、中学校のサッカーの朝練が始まったセガレを見送りクルマに乗り込む。登山道入り口までは約1時間。二社一寺、いろは坂、戦場ヶ原と観光名所を横目に到着する。


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登山口。ウォーミングアップもなくいきなりの急登が始まる。




先週登った古峯ヶ原-横根山とは全然違う。そうだ、登山ってこんなだったと思い出す。冬や春にかけては残雪が怖いので低山にしか登っていなかったが、こういった単独峰は一方的に登り続けて頂上を目指すものだった。
特に見るべきものもなく、黙々と坂道を登り続ける。



全速力でがしがし登って、山王帽子山(2077m)山頂を通り過ぎる。山頂から振り返ると、雪がまだ多く残る白根の頂が見える。南に目を向けると男体山の裾と、中禅寺湖が。







目的地である小太郎山と太郎山が遠くに見える。ここから笹薮の中を急降下する。





鞍部を登り返していざ小太郎山にアタック。途中のハガタテ薙分岐を通る。トラロープが張ってありもちろん進入禁止だが、うっすらと踏み跡が見える。ネットではここを通る命知らずの人も居て、整備されていない分「北穂より怖い」そうだ。
自分もここを突破してみたい衝動に駆られるが、深呼吸して我慢。どうせ行ったら「怖い怖い」と後悔するだろうから。
この辺りだけシャクナゲが満開。





小太郎山(2328m)に到着。
草木は無く、快晴の天候も手伝って360度の大展望が広がる。
先日、娘のテニス大会で、一日炎天下でカメラを持ってウロウロしていたら、日焼けで顔の皮が剥けてしまった。そこで、慌てて近所のホームセンターで398円で購入した麦わら帽子がイカしている。
自分の帽子を購入したのは、小学生の時の黄色帽子以来である。
帽子が直射日光を遮ってくれるだけで、こうも暑さが緩和されるのかと初めて知った。







さて、地図とGPSを確認する。特に「危険」とは書いていないが、明らかに危険な匂いのする細尾根が見える。
「気を付け」出来ないほどの幅の道の左右は落ちたらオワリの急勾配で、しかも大きな岩が鎮座しているのが見える。


これを今から登るのだ。
痩せ尾根の上で、恐る恐るザックを下ろし、トレッキングポールを片付ける。間違ってザックを落としちゃったとか自分が落ちちゃったとかが無いように、慌てず騒がず慎重に作業する。
問題の岩に近寄る。
岩の高さは3メートル弱と言ったところか。上まで先人たちが足をかけた箇所が確認できる。
マジか、これ登るのか!
ムズっと来てキュッとなる。
手を慎重に取っ掛かりに掛けて、力を入れてみる。ぼろっと取れてしまったら、僕はその石を握りしめたまま切り立った谷底に落ちるのみだ。
一歩目を踏み出す。手を置く場所を確認し、足を掛ける場所を確認する。

体は今完全に岩に委ねられている。谷底から風が吹いて、麦わら帽子がほんの少しずれるが首にかけた紐のお陰で飛びはしない。
しまった! もう少し強い風が吹いて帽子が外れて顔にかかってしまったら、どうやってその帽子をずらすのだ!?

やっとの思いで岩を登り切る。座布団半分ほどの広さがあるが、怖くてまっすぐ立ち上がれない。気が遠くなりそうな、頭の芯がぼーっとしている感じがする。
岩には木の板が打ち付けてあって、「剣ヶ峰」と読める。いったい、誰がこんなものをここにつける事ができるのだろうか。四つん這いになりながらウェストポーチのカメラを出して片手でパチリ。
登ったはいいが今度は降りなくてはならない。
家の屋根の上から直角に近いはしごを降りるような角度だ。


もちろん、降りるためには後ろ向きにならなくてはならない。前向きで降りたら岩を掴めないしザックが引っかかるし、それは当たり前なことはわかる。
けれど、怖い。
体を投げ出す瞬間が怖い!


慎重に慎重に三点支持を確認し岩を下る。地面に足がつく。
越えた!やった!逃げるようにして細尾根を進み岩から離れる。振り返ってみるとこんなかんじ。
奥には小太郎の山名板が微かに見える。


手足がなんとなくしびれたまま太郎山に向かう。
尾根は細く、雪も残っている。




程なくして太郎山山頂に。
年配の登山者2人がいたので挨拶を交わす。
「剣ヶ峰、怖いですね。俺、死んじゃうかと思いました」と僕が言ったら、一人が「そうかな?」と答える。強がっちゃってぇ、と思ったら、もう片方の方が衝撃的なことを口にした。
「あんた若いから、本物を越えて来たんだね。よく岩ん所で見回せば、左側に巻き道があるんだよ。」
なんてことだ。だから登山の本にも地図にも危険と書いていなかったのか。
「でも、昔の修行僧たちは皆そこを越えて修行としたんだし、一度くらい経験した方がいいよ。あんた、貴重な経験したよ。」


山頂からの眺めは素晴らしいが、帰り道が気になって仕方ない。本当に巻き道なんてあるのか。もうあそこには近寄りたくないのに。


山頂では荷物は降ろさず、無休憩で先を急ぐ。
道を少しずれて新薙方面に向かう。爆裂火口跡である通称「お花畑」に寄ってみる。
お腹もすいてきたが、剣が峰を越えて、小太郎山まで戻って、平和な気分でおにぎりを食べようと決める。
山頂から10分足らずでお花畑に到着。事前の情報から知っていたが、花は無い。


さて、復路である。剣ヶ峰までもう少し。
道中、金剛杖を持って歩いてくる初老の方とすれ違い、会釈する。金剛杖は2mほど有るのだが、ただの木の棒なので普通の人が持つトレッキングポールのように伸縮することが出来ない。この人は、まさかこの杖を持ったままあそこを越えたのか。
考えるとそれは不可能なことのように思える。手に棒を持ったまま、三点支持をし続けることは出来ないからだ。
ということは、やはり巻き道があるのか。

剣が峰が見えてきた。
ちょうど登山者が岩に取りついているところだ。

見ているだけでムズっと来てキュッとなるが、僕はあそこからもうひと登りして、そして下ってきた。
岩の上の登山者は周りをキョロキョロ見回している。すると、登山者はこちらから見えなくなった。
程なくして、登山者は岩の右下からひょっこりと現れた。あそこに巻き道があるのか!
よく先ほどの写真を見ると、右下にスプレーで描かれた○が見える。
僕は確かに○じゃないところを通った。でもやり遂げた。「人生で一度くらい経験すれば」という岩をへっぴり腰で乗り越えた。


○の道はやはり痩せた尾根で、子どもを連れて歩きましょうという感じでは全くない。
でも、寿命をすり減らしながら岩にしがみつくよりはかなりマシだ。

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帰り道、急勾配を下っている時のことだ。
ザックに括りつけたラジオから、近藤真彦さんが7月に出すベストアルバムの話が流れてきた。
僕は20年ほど前に新潟は古町にいた頃、けっこう熱心に近藤真彦さんのモノマネを練習してマスターした過去があり、懐かしさもあって「マッチでーす」「マッチでーす」と何度か声に出してみた。
久しぶりの「マッチでーす」は最初は自分で納得出来るレベルには無かったが、数回工夫して繰り返すとコツを思い出してきて、昔のようにかなり上手に出来るようになった。
大きな段差を軽く飛び降りるように越しながら、「マッチでーす」と声を出した次の瞬間、僕と同年代のご夫婦が樹林の死角を抜けて急にそばに現れた。
僕もビックリしたが、あちらもそれは大層ビックリした様子だった。
まさか彼らも、奥日光の山奥で単独で登山するマッチとすれ違うとは夢にも思わなかっただろう。僕はマッチの声マネのまま「こんにちはー」とすれ違ったが、あちらは本物のマッチにすれ違った興奮からか、かなりしどろもどろだった事からもその驚き加減は容易に推察される。

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総括する。
男体山と女峰山の影に隠れた息子太郎山は、その言葉のイメージとはぜんぜん違う険しい山だ。
等高線を見ればわかるように、緩やかな稜線は無く、暑い日が続く今でさえ雪渓を歩くことも強いられる。
細かいアップダウンは無く、ひたすら登って山王帽子山、下って小太郎山~というのを繰り返す。
道中は何度か見晴らしが良くなるが、さりとて男体山のように箱庭の風景が見えるわけではない。
これから登る方は、ぜひ片道くらいはホンモノの剣ヶ峰を越えていただきたい。責任はもてないけれど。
気になるのはハガタテ薙だ。人が行けるなら俺も行けるんじゃないか。でも遭難して消防署の方々に迷惑は掛けたくないし、子どもを残してどうにかなるわけにはいかない。
道中の細い尾根もずいぶんと崩れてきていて、ひょっとすると大雨で崩落してしまうかもしれないそうだ。

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今後インターネットで、6月2日、太郎山と検索すると、もしかすると「近藤真彦と山中であった、シャレた麦わら帽子がイカしていた」というSNSやブログが引っかかるかもしれない。
近藤真彦さんの名誉にかけて誓うが、恐らく氏がもしも本当に山登りをしたとしても、道中に「マッチでーす」とは言わないであろうことはここで声高らかに宣言しておきたい。
皆様がもしそんな記事を見つけたら、「それは地元の人です、悪い人じゃありません」とコメントをしてあげて下さい。

「マッチの真似をする変な人とすれ違って、剣ヶ峰よりマジビビった」とかだったら困るけれど。