私の両親と旦那のお父さんはすでに亡くなっている。

タヒについて考えることで生きる意味が分かるのではないかと思い、考えてみた。

 

 最初に亡くなったのは義父で、胃がんを患っていたものの、仕事人間のため、死の一週間前まで働いていた。

義父が病院で亡くなり、葬儀場で綺麗に飾られた義父をみて『怖い』と思ってしまった。

その『怖さ』とは、タヒ体、呪い、怨念というホラー的なものであった。

火葬後、納骨のために、お骨をもって電車にのって1時間の長旅。

風呂敷にくるまった四角い箱はどう見てもお骨。

私人身が怖さを感じているため、周りの乗客も怖い思いをさせてしまっているんではないかと少し心配になった。

そして、義実家では初めての仏様だったため、仏壇を購入した。

その仏壇に魂入れをすると、お寺さんがやってきた。

私は、この魂入れをとても楽しみにしていた。

仏具店でかったただの箱に魂入れをすることでも、しかして何か変化が起きるのではないかと期待していた。

パソコンも、OSを入れないとただの箱であるように、仏壇もあの世との通信機器になるのではないか?
もちろんそんなわけはないが、せめて仏壇が輝きだしてほしいと、心の中で願っていた。

その願いはかなわず、魂入れを終えた仏壇には変化がなかった。

毎日、義母が仏壇に向かって語り掛けている姿をみて、

葬儀や仏壇というものは生きている人の心を満たすものにしか過ぎなく、

亡くなった人からしたらどうでもよいことなのかもしれないと感じた。

 そんなことを考えた、一人目であった。

 

 

 次に、父が亡くなった。タヒ因は若年性アルツハイマー型認知症で枯れるように亡くなった。

子どもの長期休みに合わせて、実家に帰り、入院している父の顔を見に行っていた。

老人ばかりの病院だったので、寝たっきりでチューブにつながれた人たちを見て、こんな世界があることを知った。

弟の結婚式が数か月後に控えていたため、母から相談された。

『もし、お父さんがなくなって結婚式ができなくなってしまったら申し訳ないから、

栄養の点滴をしてもう少し生きててもらいたい、残酷なことをしてしまうけどそれでもいいか』と問われた。

私は、なぜそれが残酷なのか理解できなかったが、母の提案に賛成をした。

そして、結婚式も無事終わり、次の長期休みに、父に会いに行った。

父の姿はベットに拘束され、骨と皮だけになっていた。

父は『うー、うー』とうなりながら、腕を見ている。

私は母に『点滴外してほしんじゃない』と言った。

すると母は、『今度、診察の先生に相談するよ』というと、父は静かになった。

また1か月もしないうちに、危篤と言われ、駆けつけた。

父は母に胸をたたかれながら、『ほら○○(私)がきたよ。心臓動かして』

母に生かせれている父の姿があった。それから1時間で息を引き取った。

もし、あの時、点滴をしなければ、父はもっと早く亡くなり、苦しい思いもせずに済んだだろう。

ようやく残酷さを理解できた。

こんな時でも、子どものことを優先する両親は素晴らしいと心から思う。

父のタヒは怖さがまったくなかった。

ただ、父の魂が抜けてしまっただけであって、タヒ体でも、お化けでもない、父は父だだった。

変な言い方になるが、鮮魚コーナーの『魚』のような感じがした。

火葬し、納骨。

実家の地域では、墓石の下にある空間に、大きな骨は箸でつかんで入れ、細かいものはザーっと入れる姿を見て、

また、変な言い方をするが、お墓を『ゴミ箱』だと感じた。

魚は、人間にたべられ、不要な骨や頭、尾はゴミに捨てられてしまう。魚は『身』に価値があるものだ、

しかし、人間の場合、魚と違い、身には価値がない。

価値のない身は火葬され、残ってしまう骨はお墓というゴミ箱に捨てられる。

だから、人間は『魂』に価値があるのではないかと思う。

そんなことを考えた、2人目であった。

 

 

 最後は母で、膵臓癌だった。闘病生活をしながら父の介護をしていた。

私たち兄弟は実家とは離れていたところに住んでいたため、母のために何もできなかった。

定期的に病院に通いながら抗がん剤治療をし、だるさがありながらも友達と旅行を楽しんだりと元気な姿だった。

長期休みを利用して、実家に帰ると、家を整理したいというので手伝った。

断捨離が得意な母だったので、迷うことなくポンポンと捨てていった。

そんな母でも嫁入り道具の布団だけは捨てることができなかったのが意外で、記憶に残っている。

それから母は入院し、2週間後に息を引き取った。闘病生活は2年だった。

母は、父の両親の介護をし、入院しているおばさんの面倒をみて、最後に父の介護をした。

生前『私の人生は、介護をするために嫁に来たようなものだ』と皮肉を込めて話していた。

母が亡くなった時も父の時と同じようなことを思っていた。

よく父は『千の風になって』を聞きながら、『お父さんが死んでも、いくら仏壇やお墓で手を合わせても、私はココにいません。眠ってなんかいません』と話していたことを思い出した。

両親の死を経験して、お墓や仏壇に手を合わせ、どんなに語り掛けたところで、答えてはくれない。

タヒ者にとらわれずに、父と母と過ごした記憶を噛みしめて、前向きに生きていかなければならいと思った。

そんなことを考えた。3人目であった。

 

 

思い出をたどりながら、文章を書いていると、楽しい思い出が次から次へと出てきて、少し幸せな気分になれた。

思い出の積み重ねが、生きる意味になるのかもしれない。(カモ????)