生々しいお話になるかと…死に恐怖がある方はご遠慮ください。

タイトルの日、私の父が亡くなりました。


たまたま病院からオムツのお届け依頼があり、気を利かせた母が面会は出来るかと聞いてくれた。

…そう、コロナのせいで病院は面会が難しく、会えても15分という現実だった。

実家まで車で2時間。

平日のお仕事がヘビーで、ヘトヘトだった私は、断る選択肢もなくその日の夜車を走らせた。

着いたのは22時過ぎ。
言うまでもなくヘトヘト、母と少し話し就寝した。


ワンコを連れての帰省だった為、深い眠りからワンコが吠える声で冷静に起きだした。

1階に降りると、家電が鳴り響き、少しづつ意識がはっきりしてきた。


…嘘だろ。


熱が上がって意識が混濁している状態です。


…嘘だろ。


…父はステージ4の前立腺がんが見つかってから3年半余り闘病生活をしていた。

そんな中、年末に脳出血を患い、出血が三半規管を司る部位だった為に終始気持ち悪く食事が出来ないでどんどん衰弱していった。

が、病院の方に食事だけはと頑張って母が伝えてくれて、始めこそ鼻チューブで栄養を取っていましたが徐々に体力が戻り最終的に口から食事を取れるようになって退院にこぎつけた。


…ただ、元々気持ち悪くなる抗がん剤は飲めなくなった。


本人が楽なように…それが家族の総意だった。


この抗癌剤も辛いらしく一時期は嫌だと言っていた父だったが、兄の説得の上飲んでくれていた。


だけど、脳出血の状態の父にはこれ以上無理強いはできなかった。


思った以上に身体は弱っていたんだね。

5月の終わり頃、高熱で救急車で病院へ。
その時はまだ熱が下がった後、ご飯は食べられていた。

…だけど、コロナ。
面会は思うように出来ず、看護婦さんからの

『変わらず穏やかですよ。』

という言葉を信じていた母。

嚥下能力が低下して点滴だけになり

その日は訪れた。

7月11日(土)午後から発熱したらしい…

原因は頬の炎症

身体は弱っていたんだね。

病院から連絡があったのは午前1時

そこから慌てて病院へ。

…会いに来ただけなんだけど。

…要約顔が見れると思ったんだけど。

複雑な想いとともに、母が取り乱さないように私はしっかりしなくてはと自分の感情は隠した。

…母はとても弱い。
感情のままに生きている。
そう、しっかりしないとそれに引っ張られる。

病院に着いて看護室に隣接する病室へ通された。

…片息が始まっている。
母が言った。

…嘘だろ。

一先ず落ち着いて、父の側に居た。

…目に見えて、息が弱くなっていった。

…嘘だよね?

兄が3時間の道のりを駆けつけてくれているが、間に合うのか心配になってきた。

3時。兄に電話をし確認。

…病室へ居るのが辛くなってきた。

父のお兄さんに諭され病室に戻り、兄も要約到着した。

…また息が弱くなってきていた。

、、、看護師さんが来て、脈がもう測れないと、一生懸命心臓が動いている状態です。
心臓が耐えられるまでは頑張って動きます…

…さよならするしかないんだ。

残酷だけどこれが現実。


お父さん。
無理させていたんじゃないのかな?
お父さん。
苦しかったんじゃないの?
弱音も吐かず、辛くなかった?
お父さん。
私達はちゃんと親孝行出来た?
お父さん…。

最後はみるみると弱くなっていった吐息。
爪はみるみると紫へ。
しばしば動く足も紫へ。

東京に居る兄だけが駆けつけることができるわけもなく、電話してみるも爆睡?。

遂にその時は訪れた。

呼吸の間に2回ほど飲み込むような仕草があり、父は逝った。




泣くことしかできなかった。





…父は楽になったんだと、3年頑張ってくれたんだと必死に言い聞かせながら、この3年間父に無理をさせてきたのではないかという想いが湧き出てきた。

父にとってこの3年間はどうだったのかと。

兄の住む街の整形の先生のおかげで父の生活は変わった。


父は昔気質の職人で病院嫌い。
口癖は良くなってから病院へ行く。
…苦笑

そのお陰で、歩けなくなってから病気が見つかった。

最初の病院では、もう手の施しようがないのでご自宅へ帰ってください。

…兄が諦めきれなかった。

兄の仕事柄知り合うことの出来た整形外科の先生に相談して、転院が決まった。

ステージ4という事で、体中に転移していた。
前立腺がんだったので、主に骨転移。
背中への転移が一番酷く、骨が膨張して神経を圧迫していたらしい。
歩行障害は勿論、内臓系も麻痺してくる。

ガンは治せなくても、生きている間父らしい生き方をと、兄の想いが届いた。

背中の悪いところを取り除き、ボルトというかもう骨のような器具で背骨を補強。

5時間以上に渡る手術でした。

…実は上の子が小学校卒業一週間前で、学校を休ませることが出来ず家に置いてきていた。
夕方5時からの手術だったから帰るのは諦め上の子にだけ事情を話し、帰らない選択をした。

手術中、母の体調も考え近くのビジネスホテルを取り少し休んだ。

術後も大変だった。
麻酔のせいか吐き気が父を襲う。
友達の看護師に聞いたら、便通薬も急な血圧低下を促すため原因かもと、看護師にそれを聞いてみて要約吐き気がおさまった。

そこからが、父の頑張り。
体力がついたところでリハビリが始まり、父は弱音も吐かずに頑張った。

ただ、手術の跡も落ち着いて病院側の退院の期日が迫っていた。…病院なので、リハビリだけだと置いてもらえないのね💦

退院後どうするのか、最初の問題でした。

リハビリをして欲しいと、お願いし同市内の病院に転院した。

ただそこもやはり入院期日が決まっていた。

実家は母と父の二人暮し、歩行困難な父と二人は明らかにやっていけない。
家もバリアフリーでもないのでそれもどうにかしなきゃだし。

苦肉の策で、実家の準備が整うまで私の家で面倒を見る…そう決めた。

父が入院中も、母は私の家に泊まり仕事が終わったら病院への1時間の道のりを繰り返した。
…父はガムシャラにリハビリを頑張ってくれた。

歩けないのが
→立てるようになり
→歩行器を使って歩けるようになり
→補助器具であるけるようにな
→実家へ帰っていった。

私の家にいる間デイサービスを利用していた。
母が家の準備で実家に帰っていた時は、上司に話して仕事を遅刻させて頂いたりしていましたが、その上司が上に報告していなかったのか遅刻が多いと注意されたり…仕事がない状態でしたけど。
色んな人が居る事を知りました。

さてさて、この私の家に居るときにお世話になったデイサービス先が本当に素敵なところで父の性格を一変させてくれました。

ああいうところの人ってどうしてこんなにも愛情深いのでしょうね。
弱った体と心に本当に良くしてくださいました。

今、高齢者のリハビリも高齢者用でしょうけど筋トレ器具なんです。
父は久々に男心に火がついたんだと思います。(男性ホルモンを抑えるために女性ホルモン優位の注射してましたけど(笑))

…楽しかった思い出しかないんじゃないかな。
最終日に貰ってきた職員さんからの寄書き大事に取ってある。

建築業に携わってきた父だから、家のリホームにはうるさく言うだろうと踏んでいた母と私。
私の家に居る間にすっかり改良の手筈を踏みました。

お陰で居るときにリホームするよりは大丈夫だったよね?

実家に帰り、補助器具で歩いていた父がいつしか杖で歩けるように。

退院してからは、最初は3ヶ月に1回、6ヶ月に1回手術した病院へ経過観察へいていた。

行き帰りをひとりでは無理だったので、迎えを兄がして通院の日までそちらへ泊まり、通院の日に私が駆けつけて私の家に泊まり土日に送っていくという事を繰り返していた。

…それを私は大名行列とよんだ(笑)

…苦しさの中に各地を巡るささやかな幸せがあればと思っていたけど父はどう思っていたのか?

ガンの診察は実家の方でしていた。
ホルモン治療だけでは進行を抑えられず、抗癌剤を使うことになった。

前立腺がんは使える抗がん剤が3種類あった。

幸運なことに、最初の抗癌剤は比較的副作用の少ないものだった。

しかし経過観察が必要な為に投与中1週間の入院が必要だった。

…私が忘れているだけなのか、父は入院する事が嫌だと言った。

結局副作用もなく通常通りの入院期間で無事に退院してきた。

2回投与した所で様子見。

それでも病状が進行し、次の抗がん剤へ。

それが年末まで飲んでいたもの。

強い薬だったからか、数値は落ち着いた。

2錠に増やされたときに父からのギブアップ。

しかし主治医からは、飲まないという選択をするならば覚悟をしてくださいと。

ありがたい事に兄が説得してくれた。

朝に服用していたのを夜にし1錠ならと頑張って飲んでくれることを約束してくれた。

本当に辛かったんだよね。

そうこうしているうちの、脳出血でした。

…食べることもままならない父にもう誰も薬を飲んでとは頼めなかった。

ご飯を口にできず点滴だけの生活。

徐々に体力はなくなり衰弱仕切って、寝てることが多くなった。

胃ろうか、そのまま見送るかもう退院の期限は近付いていていた。

脳外の主治医が選んだのは鼻チューブで直接栄養を送ることでした。

お陰様で体力が戻り、耳鼻科の先生に嚥下能力の確認をしてもらい食事のトレーニングをしていただけました。

3月退院する事ができ、また実家での生活が始まりました。

ただ、やはり脳出血の経験が壮絶だったのか、そこからの生活は生き急いでいる様に見えた。

イライラはMAX。

少ない体力を使っての家の内外の片付け。

そして母への暴力、暴言。

今思えば、痛みと恐怖と入り混じっていたのかなぁと思う。

母には、言いたい事を伝えな、母さんだって生きているんだから。
酷ければ、家の外に逃げなね。

遠距離で話しか聞けないもどかしい中で、母の心を守るためそれだけ伝えた。

母も母で、薄々この掃除は自分の逝った後の為と言葉にはしなかったが、そう感じていた。

今思えば、母がしおらしくしていたら父は生きる気力を無くしていただろう。
お互いに辛かったと思うけど、最期の夫婦喧嘩だったね。

…お母さんが居てくれたから、お母さんだから父さんも甘えたんだよ。
なんとも言えないもどかしい気持ち。

…続く。
(気が向いたらまた書き始めます。)