漢王朝からの政治が尽く荀子の思想を遡るべし、と梁啓超はおっしゃる。梁啓超は、日清戦争において清国の敗北をきっかけにして、中国従来の政治制度を多様な視点から批判したり考え直したりしながら、その標的となるべき荀子の思想も、賛成であれ批判であれ、如何にしても中国の政治と歴史に著しい影響をもたらしてしまうとは過言ではないだろうか。そして荀子を儒学者として考える流れが伝統としては一般的であるが、かれが唱えた性悪説を基にして上から下への統治を支持する事を考え入れ、荀子を法学者と見なすべき論説も稀ではない。でも、法家が提唱する法治主義は、けっして近代からの法治と同じくすべきではなく、それに対してむしろ如何にして国民の知恵を抑え、国民の連協を裂き分け、そして全ての国民を国の為に一束とする、という制圧的な独裁主義の例えに考えるべく、そのような考え方は『商君書』が一番凄まじい形で表している。今の世界は、表面上から民主主義の潮が何でも抵抗できない勢いで広まっていると見えながら、実は人の間の理解を欠く事、政治がいよいよ娯楽化されたる事、学問と知識に対する趣味を失っている事、それらの傾向に鑑み、中国にも西洋にも民衆の対立がほのぼの解けなくなる事を考えるとしたら、あたかも法家流の法治主義がいまだに消えてはいなく、むしろ或るいっそう密かな形で蘇るのではないかを思うまでに、そしてそのような政治現象が良いか良くないかを問題視すべきである。
民衆の自主を抑え、政権の安定を守るには、民衆と政権の関係を対立関係として見込みながら、民衆の知恵が強くなると政権の権威が縮まるという考え方は法家の常なる視点ではないか。『商君書』では、強い人をもって強い人を攻め、強い人が残るから国が弱くなる、弱い人をもって強い人を攻め、強い人がいなくなるから国が強くなる、という対立主義の考え方は何回も見られている。さながらの弱い人を操って強い人を倒すような政治運動は大まかに弱民主義にも言われ、文化大革命からその主義の一番恐ろしい姿が見えるし、今の政治の行事においても、娯楽化であれ二元論化であれ、何れも賢さを欠くべき国民を育てて、論理的で中立的な考え方を持っている、と或る思想上の強い人の視点を抑えるようなあらすじによって考えては大きな間違いがなさそうである。しかしながら、中国の歴史を渡って見るのなら、そのような弱民主義が幾つか意識的に行われていても、それに登場するさまざまな王朝はあくまでも或る盛者必衰の循環に従って、法家に属すべきその弱民主義は遂に或る時代か王朝の定まる終焉を防ぐ事ができないと見える。
では、その弱民主義の欠点はどちらに見つかるべきなのか。実は弱民主義そのものの滅びは、最初からその弱民主義自身のもてなしに潜むべく、敢えて言うには栄えの種こそ衰えの種を持っているという応報を含み、或る弁証法的な視点で見るが良い、と私はそう思いがちである。迷信の人の例えをお話したら、迷信というのは人の思想を導く一般的な特徴なので、もっぱら唯一の迷信に拘る必要もない。今日は思考なしにこの迷信を信じながらも、明日はもし他の強くて新しい迷信ができる場合には、同じ愚かさでその新しい迷信に操られやすくなっても不思議なものではない。実は歴史の大事件を調べるには、或る突然の飢饉、若しくは疫病、若しくは戦争に見舞われ、従来の信仰を速やかに捨てて新しい信仰に絡むような事は、黄巾の乱にも、黒死病にも、太平天国の乱にも、何回も往復する事が見えるから、何れもその前の信仰と政権に対して或る破壊的な影響を与えている。そう言っては、法家の流れによって主な人を弱民にするだけではけっして政権を守るに十分ではなく、その後でどうやってそのような弱民を他の信仰か権威に傾かなくする事ができるかというのも同じように重要ではないだろうか。
でも、そのような考え方はきちんとして権利と責任の対等に的中するのではないか。詳しくは、どの明らかな、若しくは密かな企みで民衆の知恵と連協を潰し、かれらを力にも思想にも弱い人とするのなら、かれらが弱くなってしまってこそ他の権威に容易く傾くと考えるべきなので、そのような結末を防ぐ為、政府も同時にその弱民に対していっそう重い責任を果たさなくてはいけなく、その権威を日常生活の細かいところまで維持するに相当な工夫を凝らす必要もなかなか甚だしくなるべきである。しかしながら、どんなに愚かな民衆においても、あくまでも豊かな食糧、安らかな住宅、穏やかな仕事、合わせて経済状況においての持続的な発展を維持する事が必須なので、政府もそれらの要求を丁寧に満たさなくてはならない。そうしなかったら、どんなに立派な政治術を遊んでも国の混乱を防ぐ事はできないではないだろうか。
今年は、中国で二回ぐらい中国在住の日本人を侵害する事が起きてしまい、それは政府が愛国主義のみで民衆を愚かにしながら、その同時に民衆の平らかな日暮らしさえ守れなくなるにあって、民衆は遂に政府が作る輿論から逸脱してこのような災難を果たすのは、弱民主義のみの政策が役に立てない証拠ではないか。そして政府がもの遅く理性的な愛国主義を唱えても逆に民衆から愛国主義が足らないと罵倒され、なかなか皮肉なものではないか。そもそも愛国主義の宣伝を企んで行うに比べて経済的な問題を解決するに集中するほうがいっそう相応しいではないだろうか。向こうの米国の大統領選挙にも今まで見当たらない衝突と対立が現れ、それも多分、政治の娯楽に耽って賢さを欠くべき民衆が従来の政治の制限を越えて反発する症候であろう。
従って、どのような脇道で弱民を作って政府の責任を減らそうとしても、あくまでも民衆の穏やかで安定な暮しの為、遂には経済的及び発展的な問題に忠実に向かって民衆の安楽に励んで努力するに他ならない。そうしたら最初から民衆を教育で強化し、強くて賢い民衆を励まし、そしてその賢い民衆と共に国の未来を思索するほうが一番宜しいではないだろうか。昔の儒学者が述べた王道、啓蒙思想家がおっしゃった理性主義、それとも福沢諭吉が唱えた学問の進めは、何れもその共通の理を表すのではないか。