その夜私達は宮代町の防空壕で夜を明かし、明け方鍛冶町の仮小屋へ帰った。

もう一日早く引っ越ししていたら、と思うと・・・残念を通り越し無茶苦茶に悔しい!!!

 生き埋めから助かった姉は、大手町の杉山病院へ運ばれ、応急手当てをされた。負傷者が多く病院の廊下に寝かされていたがうめき声やら励ましやら騒然としていt。

 

  ここからは私のつたない手記に変え、姉の体験記を贈ることにする。

 

 

                空襲の体験(昭和二十年八月一日)   〇 〇 三 喜

             

 昭和二十年(1945)八月一日、その日は真夏の太陽が、ジリジリと照り付ける暑い暑い日でした。

清水市はすでに七月七日、七夕の宵にアメリカ軍の《空襲》で、全市が焼け野原になっていました。空襲で家を焼かれた私達家族は、焼け残った数軒の家の中にたまたま親戚の家があり、その家の一室を借りて一時しのぎの生活をしておりました。(空襲とは、飛行機による爆弾投下などの襲撃)

 夕空が真っ赤に染まり、何事もなかったように太陽が西の山の彼方に沈んでいきました。

夕食をすませ夕風に涼んでいた時、何とも不気味な爆音を耳にしました。その音はまぎれもなく、敵アメリカの爆撃機『B29』の爆音でした。敵機が来ると、けたたましく鳴るはずのサイレンが、どうしたわけか鳴らないのに、もう。B29は頭の上に飛んできたのです。

突然、青白いレーザー光線のような鋭い光が、パーッと空一面に光りました。

父が玄関先で、「落ちたぞーっ」と大声で叫び、腹這いに倒れたのを見ました。その瞬間、この家は爆弾でフッとばされていたのです。

気がついてみると、私は土の中に生き埋めになっていたのです。もがいても、

もがいても身動きができず、暗黒の土の中で「助けてー助けてー」と、声を限り

に叫びました。けれども爆弾でとばされ、メチャメチャにこわれた家の中です。柱や瓦が、土とごっちゃになってどうする事もできないのです。

 しだいに酸素がなくなり、呼吸が困難になってきました。「たすけてぇー」と叫ぶ声も出なくなってきました。すると、土の中から「ウー、ウー」という苦しそうな声を耳にしました。同じ家の一室を借りていたY田さんの声なのです。

苦しい息を精一杯しぼりだして、「Y田さーん、Y田さーん」と呼んでみましたが、Y田さんはただ、「ウー、ウー」と言うだけでした。

私もますます呼吸が困難になり、「もうだめだー」「これで私も死ぬんだ」と、意識が薄れていく中であきらめていました。

すると、かすかに私の名前を呼ぶ声が、土の上から聞こえてきました。妹の声なのです。それは紛れもない妹の声です。「どこどこー」「どこどこー」と、土をかじりながら探しているのです。

夏の日もとっぷりと暮れて時計は九時を廻った頃と思います。メチャメチャに破壊された家、まともに歩くこともできない暗黒の闇の中です。私は声を限りに、「ここーっ」「ここーっ」と叫びながら力つきてしまいました。

その時、妹の手が闇の中で私の髪の毛にふれたのです。私は無意識のうちに、「息の

出来るように鼻のまわりを掘って」と言ったそうです。私はそのまま意識を失ってしまいました。

長い時間をかけて、身体の上に乗っている瓦や柱、土を取り除いてもらい、私は助け出されたのです。掘り出された時、「この中にまだY田さん夫婦が埋まっています、お願いします」といったそうです。

全身血まみれ、泥まみれの私は、戸板に乗せられて草原に翌朝まで寝かされておりました。気がついて目を開こうと思いましたが、瞼が開かないのです。瞼の上の大きく口を開けた傷のため、目が開かないのです。顔面から全身の傷口に、石や泥やガラスが入り、血のりがこわばって高熱が出ていたようにおもいます。

母を早く亡くした私は、突然、父の存在が気になりだしました。誰か来ないかと数時間待ったことと思います。警防団(現在の消防団)の方が私を病院に運ぶために迎えにきました。その方に父の様子を尋ねると、口をつぐんでしまったのです。その様子で私は父の死を知ったのです。

「爆弾が落ちたぞー」と、手で耳をふさぎ腹這いなった父の姿が最後でした。

涙がドーッと溢れ、大声で泣き叫びました。涙が傷だらけの頬に流れ、傷の痛さはいっそう増すばかりでした。

父の遺体はそれから*1一週間後に数十メートルも離れたところで無残な姿で発見

私が言い残していった山田さん夫婦も、その後、幼児を抱いた姿勢のまま遺体で見付かったそうです。*2B29.1機によるこの夜の空襲で、三十六名の命が奪われたのです。

その数日後、八月六日に広島に、続いて長崎に原子爆弾が落とされ、日本国中は焼け野原となり多くの犠牲者が出て、八月十五日に戦争は終ったのです。

あの八月一日の素晴らしかった夕焼けとはうらはらに、その夜おきた地獄絵のような悲しい想い出は終生忘れることはありません。

あのときから四十三年、ほんとうに日本の国は平和なのです。

 

  この作文は、『戦争を知らない小学生』に聞いていただくために

書いたものです

 

昭和六十三年(1988)八月一日

                静岡市

                        〇 〇 三 喜

*1(正確には二日後の八月三日)

*2(清水市空襲の記録では、死亡32、重傷5、軽傷16、不明2とある)

 

  と会えず一先ず終りとします    影山芳郭

 

 

 今から77年前の昭和20年月1日夜のことだった。前日未明の駆逐艦7隻による艦砲射撃から45時間過ぎた頃、突如B29が1機清水市上空に侵入した。警戒警報が空襲警報と変わるや爆弾が投下された。

 その時、私(16歳)と弟(11歳)は仮住まい(大和町、現大手1丁目)T家から小芝町に設けられた第2分団の仮本部へ情報を聞きに行ったので、国道を挟んで向かい側(宮代町)桑畑に作られた第二分団の防空壕目指して走った。青白い閃光の後物凄い爆風・・・私と弟は壕の入り口から中へ吹き飛ばされたが幸い怪我もなくホッと一息ついたのだった。

 何分くらい経ったか、句集警報解除で壕の外へ出て仮住まいのT家に向かった。国道は、砂と瓦礫で歩きにくい。所々で電線が火花を散らしている。

 T家の前に来て驚いた。2階建ての大きな家が無い!!!!!弟と二人で前に向かって走り出した。ところがあっという間に奈落の底に転がり落ちた。慌てて底から四つん這いになって這い上がった。

 

 この夜、T家の住人のうち家人は一人、仮住まいの我が家は七人、同じ東京で焼け出されたY家が三人で合計11人が住んでいた。が、Y家は3名とも生き埋めになり死亡。我が家は父親が爆心近くで3~40メートル離れた別の爆裂穴まで飛ばされ3日後に発見された。また、長姉は生き埋めになりながら浅かったので掘り出され一命をとりとめた。

 次姉、妹、祖母はちゃちな防空壕に避難し膝まで砂に埋もれながらも無事だった。

 

 

 

 

 今朝は7時少々過ぎたころ参議院議員選挙の投票に行ってきた。

ちょうど開所待ちしていた早起きグループが投票を終えて帰ったばかり、

何と、投票所の中は係員を除いて私一人で驚いた。投票を終えるころ、

次の家族が3名入ってきたが・・・。

 最初の議員投票の時、何を考えていたのか 入場券の方を入れようとして、

我ながらびっくりした。昨日の事件のことが脳裏をよぎったのか???

 

家に帰って、先日親戚から届いたサクランボを頂いた。

 

今朝の静岡新聞

投票所の江尻交流館

 

 

適度な甘みとかすかな酸味!

美味しい美味しいさくらんぼでした。