2025年10月17日、日本維新の会の吉村洋文代表は、「政治のカネ」の問題を自民党との連立の条件から棚上げし、かわりに維新の会にとって衆議院比例区の議員定数の削減こそ維新の政策の「一丁目一番地」であると述べた。前日までの、社会保障制度改革、副首都構想を柱とし、企業献金の制限を連立の条件とするとした主張を急にひるがした形である。
そもそも先進国において、わが国の人口一人当たりの国会議員の数はアメリカに次いで二番目に少ない。この定数を削減するとなると、世間の風潮によってスウィープステークス(議席の勝者総取)がおこりやすくなる。二大政党制を採用しているアメリカにおいては、共和党と民主党との間で、四年ごとの大統領選挙の際に定期的に政治バランスが入れ替わる。このため、有権者は選挙のつど、生活実感にあわせて保守と改革との比較的わかりやすい選択をする。当然ながら州によってリベラルあるいは保守的な地盤はあるものの、民主党の大統領が誕生した四年後に共和党がほぼ全州の議席を獲得し、その四年後にまた議席が入れ替わるということもざらにある。
一方、平成以降のわが国においては、一強の自民党と各種中小政党が、2009年からの民主党政権を除いて、共存してきた。自民党が極端に強権的な政策を打ち出す場合には、自民と連立与党の公明党、あるいは野党各党が様々な立場から論戦を繰り広げ、より民意に沿うかたちの政策を打ち出すことができた。この共存が可能となったのは、自民党が通例大部分の議席を占めてきた小選挙区を補完する形で、各種の政党の意見が反映される比例区が並存してきたらからにほかならない。もし、比例区が存在してこなかったならば、大多数を占める地方部の選挙区を1955年以降常に地盤としてきた自民党を一方的に利することとなり、大多数の議席を自民党が独占していただろう。仮に自民党が民意に沿わない政策を推し進めたとしても、わが国にはアメリカの民主党に相当するリベラル大政党がないため、政権交代が非常に起こりにくくなる。また、強権的な政策に対しても歯止めが利きにくくなる。比例区の定数の削減は、現行の制度にのっとれば地方部において第一党である自民党の議席独占傾向を更に強めることになるから、衆議院与党過半数割れに苦しむ自民党執行部が衆議院議員定数削減を受け入れたのは当然のことである。もちろん、比例代表定数の削減は比例下位当選の自民党議員にとっては大変頭の痛い問題ではあるが、大局から見れば自民党執行部にとってこれほど有り難い話はない。「政治とカネ」の問題の透明化は、昭和から続く自民党の集金システムと金権政治を変えてゆこうという自民党権力構造の痛みをともなう改革だから、それとは全く正反対の話である。「政治とカネの改革」を棚上げし、「比例定数の削減」を訴える。これを議論のすり替えといわずなんというか。議員特権の削減には私も賛成するが、これは別の話である。
もちろん、比例定数の削減は維新の会の利害にも密接に関わっている。そもそもなぜ日本維新の会がこのような提案をするかといえば、有権者へのアピールである。「議員定数の削減」というのは、大阪維新の会が常とう手段としてきた耳障りのよいポピュリズム政策である。当然ながら、吉村代表は人口ごとの議員数の平等という論理をもって、地盤である比例関西ブロックの議員数は絶対に大きく削減させないだろうし、それについて自民党執行部に了承を取りつけたからこそ、急に17日になって大仰(たいぎょう)な「議員削減」案をメディアの前でぶち上げたのだろう。これはすなわち、東京や大阪などの大都市に対する経済格差が拡がり、少子高齢化が進行している地方を中心に50人もの国会議員を引き上げろという主張である。議員の数が必要以上に削減された大阪府においては、すでに様々な混乱が生じていると聞く。吉村氏は大阪府知事でもあり、大阪の利益を代弁しているのは誰もが承知しているが、今まさに政治の助けを必要としている地方を見放すような政策を正義の旗印のもと掲げるのは、はたして国政政党の代表として許されるのであろうか。ネット上には議員定数削減を称賛したり維新の会の御用メディアのようにすら見えるDスポーツがこの提案を批判するあらゆる人々を炎上させる意図の記事を集中投下している。こういった新手のマッチポンプのようなネットメディアのやり口に私達はまだ慣れていないから、少なくともネット上の世論はこういったスポーツ誌や週刊誌の悪貨が良貨を駆逐するやり方に大きく揺さぶられているように見える。日本維新の会は裏金問題を追及せずに政権入りしたという批判をかわそうというポピュリストアピールは、ほとんど成功しつつあるのだ。
すなわち吉村代表は、「政治とカネ」の問題という差し迫った課題を、ネット上の世論を背景に、「比例定数の削減」という自民・維新双方を利する話題にうまくすりかえようとしているのだ。前述の選挙制度の文脈を注意深く読み取れば、衆院比例代表定数削減の提案は、なんとしても与党にくみしたい日本維新の会から自民党執行部への親睦の証の付け届けである。それは大枠から見て身を切る改革でも何でもなく、自民党が次の衆院選で過半数確保を制度上から容易にする手助けである。衆院比例定数削減という一石で、自民党の地方での選挙の優位性のさらなる強化と裏金問題追及の回避、そして表向き議員数を削減することによって人気の獲得という二羽の鳥を撃ち落とそうとしているのだ。繰り返すが、二大政党制がないわが国における比例定数削減は、一度政権を取ればよほどのことがない限り権力の一極集中が続くという、議会制民主主義にとって大きな問題をはらんでいる。すでに現行の地方における政治制度は、第一党に都合の良いように1996年に変更されており、今回の提案はそれを更に強化するものである。次の選挙に勝つための短絡的な選挙制度の変更は、もし自民党ではない政党に風が吹き、一旦その政党が地方選挙区で自民党をのみこんでしまえば、その政党はそう簡単に政権の中枢から降りないことをまた意味する。前回の参院選において、いくつかの地方小選挙区で参政党が自民党候補に僅差で迫ったという事実は重大である。
「政治とカネ」の問題が、手品のように「比例定数削減」の問題へとすりかえられようとしている。そして一部のネットメディアや人々は、吉村代表や自民党執行部を、あたかも自党を犠牲にしてまで歳費を削減する正義の味方のようにほめそやしている。(議員削減による実質的な費用削減効果はごくわずかである。) しかし、有権者が注意深く見つめれば、このトリックは政治的野望の結合と短絡的な打算であるということを見破るのは、決して難しいことではない。そこには、ポピュリズムによって国民の視線を問題の本質からそらすよう仕向けようというごう慢さがあり、一方で裏金問題への真しな反省、あるいは大阪圏や東京圏外の地方の有権者の思いを丁寧にくみ上げようとする姿勢などまるでない。